春の由比の牧を歩く

由比の牧(JR西八王子駅~二分方)(20260322)

第49回 802ちず楽会

日時:2026年03月22日(日)12:50集合
集合場所:JR石八王子駅 改札口付近
散策コース:西八王子駅(バス)→のぼり川バス停→野堀川(由比の高土手跡)→桜木天王宮(由比牧址の碑)→無量院跡→報恩寺跡→神明神社→八坂神社→くまん坂(熊野神社)→桑の葉バス停(バス)→西八王子駅

【散策コース】
 

【由井野高土手が描かれている旧版地形図】
 
   
大正10年測図 2万5千分1地形図「拝島」・「八王子」

由比の牧
元八王子小学校の西側一帯は弐分方原と呼ばれ、広い平地であった。
南側の丘陵と北の浅川にはさまれた広大な原は、奈良、平安時代から鎌倉時代にかけて朝廷直轄の牧場、すなわち「由比の牧」として栄えた所だといわれている。当時の交通機関といえば、馬が唯一のもので、朝廷が良馬の生産を奨励していたことは容易に想像できる。
武蔵の国には四牧といわれ、四か所に牧があり、年間五十頭の馬を献上することが義務づけられていたという。この原には「牧堀」と称される高く築かれた土手があり、上部に堀がつくられている。この堀は牧のさくでもあり、馬の水飲場でもあったという説があるが、畑の間を曲折しながら約一キロメートルに及んでいる。
また、ここには由井野という字名も残されており、牧の長官であった由比別当宗弘の屋敷跡といわれる所もある。そうしたことから「由比の牧」がこの地にあったことも充分考えられる。しかし、残念ながらこれを確証するものはない。ただ丘陵の中腹から一望する弐分方原は往時を忍ばせるものがある。
この数年の宅地化でますます桑をはじめとした畑地はせばめられ、弐分方原の面影も消えていきつつある。また、両側に盛り上がされていた野堀川も台風などの時にしばしば浸水を起したため、盛り上を削リコンクリートで固められた。しかし、川に沿ってつくられた約三百メートルほどの遊歩道の北側にはまだまだ弐分方原の面影が残されている。( 49・7 ・1)(写真は五十四年十二月に撮影)
「ふるさと八王子」昭和55年八王子市より

所謂由比牧と由井郷
大楽寺、上、下一分方及び二分方は、水田少く陸田の極めて多き土地ではあれど、西は山丘の麓によるが故に案外に旧地である。昔は此処を由比野といひ、由比牧と称する平安王朝時代の京都政府の牧場も此の地にあつたといはれる。所謂由比牧は延喜式左馬寮式に石川牧等と同じく共名を記され、年々牧馬十疋づヽを京都政府に貢上して居つた。武蔵七党武士中西党の日奉宗弘は此の由比牧の別当―長官―となり、以て共勢力を拡張したといはれる。故に宗弘をまた由井宗弘とも呼ぶ。宗弘の子由井二郎某なども有名であつた。父と同じく此地に居ったと解せられる。
此の由比野村はまた中世には船本田荘内で、京都東福寺に属し、毎年東福寺に年貢を差出して居った。其額南北朝の延文六年に五百文であつた。足利時代の初めより終りにかけては此地方はいふに及ばず、今の河口全村より山を越えて秋川河畔に及び由井郷と称せられて居った。されば川口円福寺所蔵応永三十二(1426)年乃至四年の古写経にも多西郡由井郷河口村とあり、又由井郷大幡宝生寺などヽある。
応永より百五十年を経過したる後なる弘治三(1557)年の文書には、由井之広徳寺とある。広徳寺は秋川河畔小和国村にある寺である。八王子城主北条氏照を一般に由井の源三と称するも、此の地の名より出でたのであらう。徳川時代には浅川本支流渓谷殆ど全都を由井領と称して居った。今も二分方に由井野と称する名の残って居るは、旧名の偶々忘れられない一証だらうといはれる。(但し公簿の上の字名としては二分方に残らず、大楽寺に残って居る。)
「武蔵野歴史地理第五冊」昭和47年高橋源一郎より 
「元八王子の歴史」昭和53年井上幸太郎より

「由井宗弘の旧蹟」
弐分方裡称由井野はその昔、由井別当宗弘が居住していた所で荒井、谷戸原、原前、戸割及び大楽寺の字、由井原に接する相当広い平地の地である。そして、その邸宅は、丘陵由井の山頂辺に在り、眺望最もよく、景勝の地にして区域は余り広くなく報恩寺(今はなし)境内を中心として館としていたもの。
宗弘氏は今より約八百年前(平安時代)の人別当に任ぜられ由比の御牧を奉行する。この別当職は交替なく土着の人であるので由井別当と称した。

「由井野高土手」
弐分方の高土手という水路は、谷戸入りの丘陵部から浸出する。そしてこの部落を貫き、東北方に流れ出て谷戸原、原前、戸割城の各字にわたる一帯の平坦畑地の中を幾度か曲折して、一キロ余を一渓流して大沢川へ注入する。一年を通じて雨期を除けば水量殆んど乏しく、流域の半分以上が空堀のことが多い。しかし大雨一度あらば洪水の如くせきを切って水はあふれるのである。
往時放し飼いの馬がこの堀に水を求めて飲料としたと伝え、しかもこの堀を境に自由に運動できる区間として、絶好なところではなかったかと思う。この堀も昭和五十一年に部分部分が改修され、その記念碑も東方厄神神社脇に移動され、その面影も単なる小川となる。

「報恩寺」(明治初年廃寺)
由井山報恩寺は、宝生寺末派による真言宗に属し、由井別当宗弘の館址に創立した。しかしその内容的には殆んど不明に等しく、現存する一草堂内に観世音と不動尊と廿三夜様を安置してあり、廃寺の際本尊並に諸仏像悉く行方不明となる。この報恩寺の観音様は、日和乞いに大変よく効くと、長雨で困る時は部落民そろって祈願すれば、三日以内に必ず晴天になるという。そしてその願いが叶えば、御神酒を上げるとの事。雨乞いの反対で余り例のない話である(ところは二分方町一一六番地である)。

「無量院」(明治初年廃寺)
山田広園寺末派にして、本尊観音、開基は村内旧家菅沼六右ヱ門氏法号を道光禅定門といい、延徳二年(二一五〇)(1490)この寺を村民が寄進したという。今ほとんどその跡は一部石碑のこわれたのが小さく一山集めてあるだけのもので、その歴史を知るには何も少ない。ただここは廃寺を利用して明治になって付近の教育熱心家集まり、西明治小学校を開校した歴史は古くない(ところは荒井の西隅)。

「熊野様のいぼ取水」
弐分方町から川町へ越す道脇右林小丘に小祠あり(今車庫ありこの上)熊野権現をまつる。昔は一段高いところにぁったという。ここに熊野堂があった。この辺では「おくまんさま」といい、五―六人しても抱えきれぬ程の大きな樅の木があり、由井野の大樅と有名であった。
或る夏の落雷で一瞬にして真二つに割れて枯れてしまった。この根本脇から滴り出る清水が如何なる早天にも渇れた例がなく、所謂これが熊野様のおみたらしである。
この水を″いぼ″につけると奇妙にとれるので〃いぼ″取水と呼ばれ、この水を頂きに来る人が絶えなかったという。戦国悲誌の武田松姫公が恩方から八王子へ越すのに、この熊野堂で逗留していったとの伝説あるも確かではない。

【神明社】(二分方町一二〇番地)
祭神は天照大神にして勧請不明。例祭は三年に一回随時。

【日光二荒神社】(二分方町一四七番地)
祭神は日光大権現にして勧請不明。例祭は三年に一度。

【天王宮】(二分方町二六一番地)
祭神は須佐之男命にして勧請不明。例祭は三年に一回。

【八坂神社又は厄神神社】(二分方町四三二番地)
祭神は須佐之男命にして明治二十三年八月この二分方付近一帯に赤痢病大流行し、村人この村はづれにこの神をまつり厄払いをした。例祭は八月一日。

〔くまん道坂〕
二分方町から川町に出る坂。熊野権現をまつった神社あり、通称「おくまんさま」という。この名が生じたという。

〔大沢川〕
八王子城跡の北部、川町の渓谷より流れ出て元八王子出張所南方附近で城山川に合流している。約二キロである。この外二分方町谷戸入から流れ出る川という程でなく、雨降れば流れ、あとはいつも水無しのもの大沢川へ注入している。約三キロである。昭和五十一年十月この上手を改修して立派な道路になった。

「ふるさと八王子」昭和55年八王子市より
由井野のおみたらし
今の弐分方町、昔由井野といった地区に、イボによくきく湧水がこんこんと流れ出ている。場所は、町のシンボル″火の見″の近くの山すそ。この湧水、少なくとも文化年間以前の遠い昔からのものらしく、地元の人から「由井野のおみたらし」と呼ばれ、″イボを取る水″として神水の如く尊ばれ祭られてきた。
地元の古老、市川庄太郎さんの話では、このイボ取りの水は決して迷信めいた伝説ではないという。市川さんも子供のころからイボを取るのに大変世話になったそうだ。
市川さん宅に残されている古文書には、文化年間にひでりで一帯の井戸水が渇水し、村の円光院住職がその湧水のたまり場で雨乞いをしたところ、その日のうちに雷鳴とどろかせて大雨が降ったとあり、この湧水、雨を呼ぶ水とも記録されている。
十数年ほど前までは、遠く神奈川や山梨あたりから供えられた絵馬が絶えなかった。今は何の供物もないが、それでも月に一人や二人はここを訪れ、水を持ち帰るという。この由井野の地区もここ五年ほどで十一世帯から二百二十世帯にふくれた。でも、新しい人はこのイボ取りの水、信じてくれないそうだ。
急激に工場や民家が立てこんできたため、昭和五十二年に竹の柵で囲われ、ひとの日からは隠されてしまった。
しかし、今でも「イボにきく水」を伝えきいて遠くからもらいに来る人がいるという。水は相変らず透明で、量も昔のままで流れている。( 49・10・1)

「武蔵野歴史地理第五冊」昭和47年高橋源一郎より
二分方
二分方は一分方、大楽寺の西にある。旧元八王子村及び川村に続く山丘の麓に連なる部落で、素より旧村ではあれど、水田は極めて少く、徳川時代の初め正保中、全村石高百六十五石四斗二升五合の内、水田は僅かに三石九升五合で、残り百六十二石三斗三升は陸田であった。其後開墾の業大いに起り、寛文七年代官深谷喜右衛門の検地を受け、以来総村高三百二石五斗一升四合となった。かくして幕末に及び、天保年中に至りても石高には何等の変りはなかった。此処も一分方、大楽寺等と同様、徳川初代は幕府直轄の地で、代官高室氏、大久保氏等の支配を受け、宝永二年に至りて幕府旗下の士前田某の知行とせられ、以て幕末に及んだ。戸数は天保中に六十九戸あつた。
この地の鎮守日吉山王社は北方、恩方街道の側にあり、光輝山沢水寺といへる虚無僧寺は、南方旧元八王子境に近くあつた。また中程小字谷戸と呼ぶ処には、新義真言宗、寺方宝生寺末、由井山報恩寺といへる寺院があつた。この寺院の前面小字原と呼ぶ地には、今より六十年前の頃諸方より掘出した小板碑が数十基集められてあつた。今も此板碑はこの地の市川某といふものヽ家に保存せられてある。また旧報恩寺跡の後丘にはヘノコ塚といへる小塚があり、昔は石棒が祀られて居った。
総て此の二分方地内は石器時代の遺物の散布すること多く、里人の中には石斧、石鏃の類を集めて居るものもある。また此地と川村との境には嘗つて先住民族の住居址が発見せられた。

 

散策コースの地図(PDF)


野堀川緑道南側入口


緑道沿いの水路


高土手跡のの水路


由比の牧石碑


桜木天王宮境内の庚申塔


桜木天王宮


由比牧と天王宮の説明


花大根( 天王宮近くの畑)


緑道北端近くの地蔵尊


地蔵尊前の参加者


無量院跡の石碑と地蔵尊


報恩寺跡の観音堂



観音堂に安置された仏像


観音堂裏の石塔


観音堂近くに咲くカタクリの花


神明神社の鳥居


神明神社社殿


神明神社石段横のオカメ桜


神明神社階段下の石塔


神明神社階段下の石仏


神明神社下に咲く杏子の花


畑に群生するホトケノザ


八坂神社


八坂神社横の地蔵尊


八坂神社近くの山裾の祠


八坂神社入口の石柱


「疣取りの水」の説明板


疣取りの水の水路


熊野神社社殿


熊野神社の額


熊野神社内部の神棚


熊野神社下の持久観音


持久観音


くまん坂下の馬頭観音と地蔵