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第46回 802ちず楽会
日時:2025年4月6日(日)13:00
集合場所:京王高尾線山田駅 改札口付近
散策コース:京王山田駅→山田川源流付近→広園寺→山田川沿い旧道→萬福寺→万町→ 子安町一興林寺→JR八王子駅
明治期の道が残る山田川谷沿いの道を歩く。山田川の源流は現在めじろ台団地ですが、元は南北に別れた谷が入っており、団地ができる前この谷は水田になっていた。山田川はめじろ台から八王子駅南部に続く台地を刻んで東流しており、この谷沿いには鎌倉・室町時代創建の古い寺院が残っている。

山田川周辺の地形
【兜卒山(とそつざん)広園寺(こうおんじ)】臨済宗南禅寺派の寺院。
入口には「兜卒山広園寺」の文字が刻まれた石柱が建っている。山門前の道沿いの台地下には、広園寺に関係のある寺が並ぶ。広園寺は、康応元年(1389年)8月、大江広元の後裔である片倉城主大江師親が峻翁令山を招聘して創建したとされるが、開基については大江師親の子道広、大江氏惣領家(時広流)嫡流長井氏5代長井貞秀の次男長井広秀など他にも諸説ある。いずれにしても片倉城主の長井氏による開基であることは間違いなさそうである。寺の周囲は住宅だが、板塀に囲まれた寺域に入ると別世界になる。杉木立の中に建つ建物は東京都の有形文化財に指定されている。歴史を感じさせる巨木の桜、一段高い本殿の庭には枝垂桜の枝が目に付く、本殿の裏庭には台地の湧水を利用して作られた庭園がある。山門と総門の間の西には八幡神社が祀られている。
総門 - 天保元年(1830年)再建、桁行一間・梁間一間、一重で切妻造。
山門 - 三間一戸、二重門、入母屋造で、室町時代から伝わる寺額が掛けられている。
仏殿 - 文化8年(1811年)再建、桁行三間・梁間三間、一重、寄棟造。
鐘楼 - 桁行一間、梁間一間、一重、宝形造で、応永4年(1397年)及び、応仁2年(1468年)の旧銘及び、慶安2年(1649年)の改鋳銘を持つ鐘がある。
(撥草参玄:はっそうさんげん)
無問関四十七則 兜率三関(とそつさんかん)
兜率(とそつ)悦(えつ)和尚、三関(さんかん)を設(もう)けて学者に問う、撥草(はっそう)参玄(さんげん)は只だ見性を図る。即今(そっこん)上人の,甚(いず)れの処にか在る。自性を識得すれば方(まさ)に生死を脱す。眼光落つる時作麼生(そもさん)か脱せん。生死を脱得すれば便ち去処(きょしょ)を知る、四大分離して甚れの処に向かってか去る。
無門曰く、若(も)し能(よ)く此の三転語を下し得ば、便ち以って隨処に主と作(な)り,縁に遇うて宗に即すべし。其れ或いは未だ然らずんば、麁食(そさん)は飽き易く、細嚼(さいしゃく)は飢え難し。
頌に曰く「一念普(あまね)く観ず無量劫(むりょうごう),無量劫の事即ち如今(にょこん)。如今箇の一念を覰破(しょは)すれば,如今覰(み)る底の人を覰破す。」
【兜率山西笑院】(広円寺塔頭)臨済宗南禅寺派の寺院。
境内、三千坪餘、是も(廣園寺の)境内にあり、下同、本堂五間に六間、本尊釈迦如来を安す、應永十(1403)年二月草創す、開山道運東堂正長元(1428)年八月七日示寂すといへり。(新編武蔵風土記稿より)
(境内掲示による西笑院の縁起)
「当院は、広園寺の旧境内地に位置し、本寺に従属する塔頭寺院である。江戸時代末期までは、本寺(広園寺)をとりまいて、その塔頭寺院が四十九ヶ寺あったが、今は当院を入れて四ヶ寺の塔頭寺院のみである。宗派としては臨済宗南禅寺派に属し、第二十七部の一ヶ寺として法燈を継いでいる。本尊は釈迦牟尼佛で釈迦三尊佛として脇に文殊菩薩と普賢菩薩を安置している。創建者は、広園寺の第四世道運慶禅師で、応永十年(一四〇三年)とされている。しかし明徳四年(一三九三年)説もある。
現在の本堂は、当院十二世敬堂代の再建であるが、十一代と十二代の間に村内爆火にあい、飛火して伽藍などすべてを焼失するに至った。しかるに詳細は尚不明である。大正十二年には、関東大震災で庫裏が大破壊した。
かくのごとき歴史の中で、特筆すべきことに、明治時代峰尾大休和尚が住職をしたことがあげられる。大休和尚は、明治十三年四月に鎌倉圓覚寺の専門道場へ掛搭し、今北洪河老師に就いてさらに修行をし、明治二十四年帰山、翌明治二十五年再び圓覚寺へ転じ釈宗演老師について鉗鎚を受け、明治二十八年十二月八日には、印可を授けられた。又何事も法縁にまかすべしと考え、明治三十三年埼玉県の平林寺に移り、さらに同年四十一年には、妙心寺に転じ再住職の拝命を受け、後に臨済宗の総管長になったのである。」(境内掲示より)
【兜率山円證院】(広円寺塔頭)臨済宗南禅寺派の寺院。
境内九百六十坪、(廣園寺の)境内にあり、應永八(1401)年九月草創本堂八間に五間半、本尊正観音を安す、開山は本山二世大源和尚正長元(1428)年十月十六日示寂す。秋葉祠、境内にあり。(新編武蔵風土記稿より)
【兜率山慶泉院】(広円寺塔頭)臨済宗南禅寺派の寺院。
境内、九百十坪、正長元(1428)年三月慶泉院殿賀翁大禅定門と云人の開基にて、この人は永享二(1430)年八月八日の卒といへ共姓氏を詳にせず、本堂七間に五間、本尊弥陀弥勒菩薩を安せり、開山は法界庵とをなじ(雲渓玄岫東堂、永享九年八月十八日寂)。(新編武蔵風土記稿より)
【兜率山法界庵】(広円寺塔頭)臨済宗南禅寺派の寺院。
境内、三千三百三十九坪、應永六(1339)年四月雲渓玄岫東堂この寺を開山し、永享九(1437)年八月十八日の寂なり、本堂八間に五間、本尊釈迦を安し、法界庵の三字を掲ぐ、峻翁令山和尚の書なりと云。(新編武蔵風土記稿より)
【金峰山永明院】(広円寺塔頭)臨済宗南禅寺派の寺院。
境内、凡二千坪餘、金峰山と云、明應元(1492)年四月創建の寺にて開山の名を傳へず、其もとは真言宗にて、新横山村に在しが後この所へ移り塔頭となりて、本山より貴雙玄榮を請して中興開山とせり、この人は相模國小田原の産にて川和氏なるよし、元亀三(1572)年六月寂すといふ、大檀那は田中和泉氏とて小田原の家人なりしが、子孫も今郡内柚木村に在りと云へども、北條家諸領役帳にも所見なければ其傳を詳にせず、當寺の開基なりしにや、本堂四間半に五間、本尊釈迦を安せり。(新編武蔵風土記稿より)
【摩尼山(まにさん)万福寺(まんぷくじ)】
真言宗智山派の寺院で、天福年間(1233年~1234年)、諏訪大社大祝兼北条氏得宗被官諏訪盛重の子清海によって開山された。清海は鎌倉幕府の伝手を頼りにこの地で草庵を作った。それがこの寺の起源という。その後室町時代前期に恵鑁が再興したと伝えられ、江戸時代は幕府から寺領3石を与えられている。
明治時代になり一時住職が不在となるなど衰微したが、大正2年(1913年)に南清孝泉が再興した。現在の本尊は大日如来だが、かつての本尊は阿弥陀如来とも薬師如来とも伝えられている。しかし、これらの如来像は、今は行方不明になっている。
【佛法山(ぶっぽうさん)徳善院(とくぜんいん)興林寺(こうりんじ)】
浄土宗の寺院で佛法山徳善院と号す。開基は西山九郎兵衛で、天文12年(1543)年に本蓮社願誉が開山となって創建したという。
(新編武蔵風土記稿による興林寺の縁起)
(子安村)興林寺
除地、六段二十四歩、小名宿子安にあり、浄土宗瀧山極楽寺の末、佛法山徳善院と號す、開山本蓮社願譽弘治三(1557)年丁巳八月廿五日の遷化なり、本堂六間四方、本尊彌陀を安せり、本堂の後に舊き寳塔に似たるもの破壊してありこれは昔大久保石見守が、越後の上杉謙信が建置しと云、右燈籠を此地に持来れるなりと、其後大久保が家断絶せしゆへ彼石燈籠も取捨となりしかば、ここの境内へ移せしなりと寺傳にのこりおれり。
(弘安の板碑)
興林寺境内には、弘安の板碑がある。この板碑は歴代住職の墓地に頭部が少し見える状態で埋まっていたものを大正の中ごろに掘り出し、現在の位置に保管するようになったといわれている。碑面には大日悉地真言(だいにちしっちしんごん)が記されており、全国的にも稀少な板碑(高さ111cm 幅36cm 厚さ5cm 建立 弘安6年(1283)6月26日)である。
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散策コースの地図(PDF)

月見橋の地蔵尊

月見橋下の山田川

山田橋付近の山田川

山田川源流部の谷

山田(やまた)小学校の校門

西笑院入口

西笑院山門

西笑院本堂

向陽公園入口

広園寺入口

広園寺境内

広園寺仏殿南の桜

広園寺惣門(内側)

広園寺山門

広園寺仏殿

境内の八幡神社

山門と仏殿の西側にある石仏

広園寺鐘楼

広園寺東門近くの石塔(撥草)

広園寺東門近くの石塔(參玄)

円證院入口

円證院本堂

円證院入口の地蔵尊

法界庵の門
 法界庵

慶泉院

永明院入口

永明院本堂

永明院内の石仏

永明院庭園

萬福寺境内の石仏

萬福寺本堂

御所水通り交差点の庚申塔

興林寺の塀に安置された地蔵

興林寺

興林寺境内「弘安の板碑」

上部と下部が残る石灯籠
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