伊能図に描かれた御殿峠の古道を辿る(2015 09 13)

 平成27年9月13日(日)、13:00にJR横浜線相原駅にメンバー9人が集合。所用で送れると連絡のあったTさんに他に、参加の連絡があったAさんの姿が見当たらない。念のためと携帯電話で連絡をとったところ、Aさんは相模原駅にいることが判明した。どうやら、相原と相模原を取り違えていたようだ。早速電車で相原駅に向かっていただくことにしたが到着まで20ほどかかるという。そこで、到着が遅れると連絡があったTさんの様子を聞いてみたところ八王子駅に向かっているというので、二人の到着を待つことにした。この日、午前中は雲が多く少し早めについたときには、ぽつりぽつりと細かい雨が落ちていたので天気を気にしていたが、次第に晴れ間が出て二人が合流して歩き始めた13:30ころには雨の心配はなくなった。
 この日の散策コースは、相原駅から町田街道を国道16号の交差点まで行き、そこから200年前に伊能忠敬の測量隊が測量したルートを辿ることにしていた。
【青木家屋敷】
 相原駅から多摩丘陵の南側の裾野を通る町田街道を東に向かうと、街道沿いに大きな農家や大谷石作りの蔵が目につく。中でも門の前に御影石に「東京都指定史跡青木家屋敷」と刻まれた石柱と説明板があり、茅葺屋根の母屋を赤い屋根の門と黒塀が囲む古民家が目に付く。現在は史跡の説明板に並んで青木医院の看板があり、この古民家が医院になっていることに驚かされる。説明によると、幕末から明治期の当主がに豪農として地域社会の教育振興や勧農に貢献したとある。この屋敷の面積は約7000u、2000坪以上の広い敷地に当時の豪農の屋敷がそのまま残されているようだ。

【清水寺】
 青木家屋敷の前の道を東に向かい、国道16号のバイパスである八王子バイパスの高架下を過ぎて少し歩くと、左側の高台に「南無観世音菩薩」と赤地に白抜き文字の旗が何本も建っているいるのが目を引く。よく見ると石段が奥まで続き、正面の急な階段の上に木々に囲まれて古そうな拝殿があるのが分かる。改めて町田街道からの入り口の石の門柱を見ると臨済宗の清水寺の文字が彫られていた。庫裏は入口近くの比較的低い位置にあるが、古い建物は石段の上の方に繋がっている。
 石段の途中には鐘楼があり、最上部には彫刻が見事な観音堂がある。観音堂は幕末の嘉永3年(1850年)とあるが、観音堂の前の水屋や鐘楼は天保8年(1837年)頃とあるから、観音堂より若干古い。しかし、伊能測量隊がここを測量したのは文化13年(1816年)だから、測量時にこれらの建物はまだ無かった。測量日記には、その土地ごとに多くの社寺が記録されているが、この寺の記録はない。
 なお、観音堂の敷地には、天然痘の予防方法を発見したジェンナーの功績を称えるとともに、地元で種痘の普及に功績のあった青木徳庵の霊を慰めるため、明治時代に建立された「善寧児先生碑」が敷地の隅にある。

【坂下から御殿峠】
 清水寺を過ぎると国道16号との交差点になる。交差点を国道16号沿いに北に向かうとすぐに左の住宅地に入る坂道がある。あたかも住宅開発に伴って作られた道のようだが、この道の形状が伊能図に描かれている道と重なる。人通りの少ない坂道が尾根の上まで続く。測量日記にある「赤坂」は、この上り坂の可能性が高い。坂道を上り詰めたところから相模原の平野が一望できる。道は住宅地の縁を巻くように向きを北から西に変え、上り詰めたところから西に向かい、今度は八王子バイパスを橋で渡る。住宅が切れたところからは林の中の道となり、舗装はしていないが車が通れる道が西へ続く。しかし、伊能図に描かれている道は北へ向かって直線上に伸びている。林の中の道を入ると間もなく右側に白い車止めの柵があり、柵の先に人ひとりが歩く程度の草に覆われた道が見える。Kさんのipadで明治初期の迅速図が閲覧できるサイトにGPSで把握した現在位置を重ねてみる。明治時代に測量された迅速図は伊能図のルートとほぼ重なる。
 白い車止めの柵から細い道を北に向かうと歩いている道の左手に溝が続いていることに気がつく。現在は笹や草が生い茂っており、雨上がりということもあってこれが古い道とは気づかないが、他の峠道と比較してもこの溝が鎌倉街道の古道だったと思われる。この道は、御殿峠まで1qあまりだが、入口から400mほどは直線状の真直ぐな道が続く。直線状の道を過ぎると右側にコンクリートの塀が現れ、この塀を過ぎた先から右に下る道があり、工事用の重機などが置かれた資材置き場らしき敷地が現れる。道はこの敷地に接して先に続いており、そこを抜けると少し広くなり歩きやすくなる。道端には色鮮やかなキノコが目に付く。最近この道沿いに測量をしたらしく、生い茂っていたと思われる下草や篠竹が刈られていた。道の両側のところどころにに道路の境界を示すコンクリート杭が見られる。この杭の間隔を見ると道幅は5〜6mありそうで、御殿峠付近に近づくとやや上り坂になり、道も堀状を呈し、かつての街道の面影が偲ばれる。坂道を登りきったところで、道は再びなだらかになるが、突然崖で切り取られている。崖の下には道があり、この道を通すため古道が断ち切られたことが分かる。崖下の道は旧国道16号で、明治になって、横浜へ絹をなだらかな峠越えの道にするため丘陵を切通しにしたものである。道が途切れてしまったため、丘陵の斜面を下って国道16号の旧道に降りた。雨上がりで関東ローム層の斜面は滑りやすかったが、途中からロープが設置されており、それを使って全員無事に降りることができた。

【御殿峠】(旧杉山峠)
 国道16号の旧道は、最高部を切り通しており、対岸の尾根上の古道を確認するため、結婚式場のある日本閣の敷地に入らせていただいたが、尾根の上は駐車場になっており道の痕跡は確認できなかった。しかし、駐車場の縁辺りは切通しの壁のようにも見え、対岸の尾根の古道を延長すると古道は駐車場の西側を北に向かって伸びていたことが推測できる。この付近の最高地点には、旧版の地形図には三角点があることになっているが、現在の電子地図には表示されていない。
 確認に上ってみたところ、標石はきちんと管理され残っていた。現在は周囲が樹木に囲まれていて見通しが効かないが、樹木が無ければ北側が一望できそうな場所である。三角点のある山頂付近から北側は、丘陵が崩され、地形が大きく改変されているので、もはや古道を確認することはできない。
 日本閣の敷地を出て、国道16号の旧道を西に八王子方面へ向かい道の最高地点辺りに昭和30年代まで峠の茶屋があった。現在は八王子方面から峠に上る途中の国道16号沿いに、コンビニに並んで「峠の茶屋」の看板を掛けた食堂兼喫茶店がある。
店の奥さんは、今回参加のkoさんの同級生ということで、閉店だった店を特別に見せていただいた。店の壁にはかつての峠の茶屋の写真とこの付近に伝わる民話の額が掲げられていた。
 一方、日本閣から現在の国道16号に出て、八王子方面に向かい、山野美容芸術短大を過ぎた鑓水の絹の道へ向かう道の交差点を右に進むとすぐ左手に老人ホームが現れる。老人ホームの奥の入口の坂を登ったところには、コックス親子の碑がある。エドワード・ポールは、お雇い外国人だった父ウィリアム・ダグラスとともに明治9年に来日し、大正6年から府立第二商業学校の英語講師をしていたが、第二次世界大戦末期に強制退居を命じられ、昭和20年に横浜港から送還される船中、インド洋上で栄養失調のため死去した人物である。

【八王子道】
 現在の国道16号に沿う古道は、かつて「八王子道」と呼ばれていたようで、伊能忠敬測量隊の測量日記や明治初期の迅速測図にも記載がある。これらの資料では峠名は「杉山峠」となっているから、厳密のいえば現在の御殿峠とは異なるといえよう。
 八王子道の古道は、現在の国道16号と重なる部分もかなりあるが、相原から峠までや、八王子側の峠を下りた車石から釜抜付近ではこれらの集落の中を抜けるルートを辿っていたいたようである。現在の峠の茶屋を後に、国道16号を八王子方面に向かう。しばらくは現在の道路と重なると思ったが、東京工科大学を過ぎたあたりから丘陵の尾根が迫り、左折の道には切通しにとなり測量の線が微妙に西側にずれる。測量日記には山王坂という地名が見え、明治初期の迅速測図の道は尾根上にあることから、左手の尾根道を下って車石の集落に入っていたと思われる。左手の尾根が切れた辺りで古道の痕跡を探すと、現在はあぜ道になっている国道の西側一段下の道に道祖神があった。明治時代以前の古道がこの付近を通っていたいた痕跡である。国道を反対側に渡ると国道から下の道に降りる階段があったので、階段を下りて車石と釜抜の間の下の道を釜石の集落に向かって歩く。途中、日本文化大学の西側沿いの道で畑仕事をしていた地元の老婦人に昔の話をうかがいながら一休みして、釜抜の集落を抜けて片倉駅の手前で兵衛川を渡る。ここから先は、現在は区画整理が済んだ住宅地となっているため、古道の痕跡は見つからないが、片倉駅のホーム西側を南北に通る道が古道の位置に当たる。

【片倉城址】
 JR片倉駅の西側に迫る丘陵の先端には片倉城址がある。前回訪れた八王子城址が戦国最末期の城であるのに対し、片倉城址は、台地の先端を空堀で隔てた戦国時代初期の特徴を残す城である。この城は鎌倉時代の大江氏の流れをくむ長井氏の築城と言われている。その後、この地を支配した大石氏、最後は八王子北条氏と受け継がれ戦国末期まで城の機能を有していたようである。南側の出入口から山上の城域を目指して森の中の道を進む。城の遺構は城と台地を区切る西側の空堀、城域の西側の広い敷地が広がる二の丸中央部の空堀で二の丸と隔てられた本丸の広場である。本丸の北側には長井氏が大阪の住吉大社を勧進したと伝えられる住吉神社がある。この神社には幕末に収められた算額が残されている。
 山上の住吉神社から石段を下りると広場の先に蓮の池が見える。広場の横には国道が接しているが、池の水面には水鳥が行き交い静かな佇まいである。広場や池の周辺には彫刻が点在している。この彫刻は彫刻家・北村西望がこの公園を気に入り、自らの作品の展示場としんだという。園内には19体の彫刻ありる。

 予定ではこの後、JR八王子駅近くの懇親会場を目指して歩く予定であったが、出発時間を30分ほど後にしたこともあり、夕暮れが迫ってきたので、片倉駅から電車で八王子駅に向かい、JR八王子駅南口の居酒屋で懇親会をして解散した。
 

 


青木家住宅



清水寺


坂下地区の旧道


丘陵上ので


丘陵上の直性道路


現在の道に沿う薬研堀の古道


御殿峠付近に残る堀状の古道


かつて峠の茶屋があった付近


釜抜集落へ向かう道


片倉城址本丸広場


台地の先端を区切る空堀


住吉神社


片倉城址公園の彫刻

散策コースの地図

 

       

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