JR八王子駅から旧野猿街道と明治時代の煉瓦工場の痕跡を探して(2015 03 01)

 平成27年3月1日(日)13時:30分あいにくの雨の中、JR八王子駅にこの日の参加者12名が集合。寒暖の差が激しく体調を崩した人もいて参加者は少し減ったがそれでも12名は、いつもあまり変わらない人数である。今回は、八王子観光協会の事務局長さんも同行された。
 この日の散策予定コースは、八王子駅南口から野猿街道を北野天満宮まで歩き、そこから明治時代から戦前まであったという煉瓦工場の跡地に向かい、その痕跡を探すことにしていた。
 
●八王子駅南口
 八王子駅の2階通路を南口に出て、野猿街道に向かうが、八王子駅にも煉瓦造りの建物が昭和49年まで残っていた。
 その建物は、甲武鉄道が八王子から与瀬に延びたことに伴い、現在の京王線の南にあった駅が現在の位置に移動した直後、明治36年に英国の技術を借りて建築されたという機関庫である。八王子駅南口の東側にあったこの機関庫は、関東大震災でも大きな損傷がなく、建設以来ほとんど手を加えずに残っていというが、横浜線の複線化に伴いホーム拡張のため昭和49年に取り壊され、今はその痕跡すら見つけられない。

●野猿街道
 八王子駅の南口には、野猿街道のルートが残っていたが、近代的なビルに変わり、駅前もバスの発着所になって街道のルートも消えてしまった。野猿街道の名称は、街道上の野猿峠(八王子市)に由来する。八王子市由木地区から八王子中心部までの野猿街道は、江戸時代の小野路道(甲州街道八王子宿−小野路〔町田市〕)に沿っていて、現在は、JR八王子駅南口東部から南東方向に直線状になっているが、この通りの北側に曲がりくねった旧道が残っている。
 旧道沿いには住宅が立ち並ぶが、その一角に祠や地蔵尊などが残っていて、古くからの道であったことがうかがわれる。

●滝不動尊・地蔵尊
 古い地形図を見ると、八王子の市街地を南東方向に離れるにつれ、山田川の支流の谷が扇状地の先端を削り、野猿街道の北側は水田になっている。扇端部分で扇状地の伏流水が滝となって流れ落ちていたようで、駅から700mほどの野猿街道の旧道沿いの一段低いところに、滝不動という祠が残っている。明治から昭和初期の地形図にはこの水の力を利用したのであろう、この付近に水車の記号が見られる。祠の傍の説明板には、本尊について不動尊の化身である竜王であるとの説明がある。
 滝不動を後に、野猿街道お旧道を北野向うと、一旦現在の野猿街道に出るが、再び左手に旧道の入口が見えてくる。この旧道を入ると民家の前に大きな地蔵尊が祀られている。更に旧道を進むと下り坂となり、右手の台地の切れるところに横浜線と京王線の線路が並ぶ踏切が見える。踏切の手前の右手の上り坂の道の中腹にも地蔵尊が見える。
旧野猿街道は、踏切のある台地下の道のようなので、この地蔵尊も元は、下の道沿いにあったものと思われる。

●旧煉瓦工場引込線ルート
 横浜線と京王線の長い踏切を渡ったところで、一旦旧野猿街道を離れ、京王線の線路沿いに八王子方面に向かう。明治39年の地形図を見ると、中央線の八王子驛から煉瓦工場まで鉄道の引込線が敷かれている。この引込線は、明治39年の地形図では中央線から分岐しているが、大正10年の地形図では横浜線からの分岐に変わっており、煉瓦工場は、昭和7年の火災によって工場が全焼したことにより閉鎖されたが、引込線は戦後の地形図まで記載されていた。現在はその痕跡もほとんど見つからないが、この線路沿いの中央線との立体交差の南側の横浜線の分岐部近くに引込線の橋脚の一部が残っている。橋脚の先は住宅が並んでいるが、建物の向きが線路敷きに沿っていることも、線路敷きの痕跡と言えるかもしれない。
 この辺りは新しい住宅が立ち並んでいるが、橋脚跡の正面の道を右へ進み、中央線の手前で再び右に曲がり、中央線沿いのかつての線路敷辺りの道を東向かう。しばらく歩くと、国道16号の八王子バイパスに着き当たる。八王子バイパス沿いに南に向かえば、野猿街道の交差部に戻るが、最初の信号交差点を右に曲がり、住宅の中の道を左に折れて南に向かうと住宅の中の駐車場の一角に煉瓦造りの小さな祠が見える。稲荷を祀ったものと思われるが、現在は祠だけになっている。煉瓦造りの祠というのも通常はなかなか見られないから、これも近くにあった煉瓦工場の痕跡ではないかと思われる。
 少し寄り道をしたが、再び八王子バイパス沿いに南に向かう。

●北野天満社
 八王子バイパスと野猿街道の交差点の東南角に高い樹木が目に着く。ここが北野天満社と呼ばれる古い神社で、敷地には天満社と並んで鹽竈神社が合祀されている。北野天満社は、京都の北野天満宮から分霊されたと伝えられ、「北野」の地名は、この神社の名前に由来するという。神社の敷地裏側に由比第一小学校で発掘された市指定文化財の敷石住居跡が移設されている。
 天満社は、菅原道真を祀った神社で、福岡県の太宰府天満宮は飛梅伝説のある梅の木が有名だが、この天満社でも、紅梅と白梅の若木が雨の中で花開いているのを見ることができた。

●由井第一小学校
 北野天満社で野猿街道を離れ、京王線の北野駅近くにある由井第一小学校へ向かう。この小学校の歴史は古く、明治6年(1873年)に天満社境内に北野学舎として140年以上前に創設され、現在の地には大正6年に移転した。移転当時は煉瓦造りの校門になっていたとようで、現在も校庭内に移設された煉瓦造りの校門が残っている。校門に使われた煉瓦は、近くにあった煉瓦工場で焼かれたもので、かつてこの地に大規模な煉瓦工場があったことの証としてこの小学校のシンボルにもなっている。

●旧煉瓦工場跡
 由井第一小学校から京王線沿いに長沼駅に向かい、湯殿川沿いの南側の住宅地にかつて「八王子煉瓦製造株式会社」 があった。この工場は明治30年にでき、八王子驛から工場まで鉄道の引込線が敷かれていた。ここで焼かれた煉瓦は、鉄道や建物の建築資材として使用されたようで、明治34年に開通した中央線の八王子〜上野原間に多く見られる煉瓦構造物(高尾駅近くの水路や道路を跨ぐ橋、 湯の花トンネル、小仏トンネルなど)はここで焼かれた煉瓦が使用されたと思われる。
 湯殿川沿いの煉瓦構造の跡地に建つ住宅の敷地には、敷地から掘り出されたと思われる赤い煉瓦が散見され、かつてここに煉瓦工場があったことをものがたっている。煉瓦工場への引込線があった辺りを湯殿川沿いに探してみたが、痕跡らしきものは何も確認できなかった。
 ここで雨が一段と強くなってきたので、予定していた散策コースを諦め、京王線の北野駅から電車で京王八王子駅に戻ることにした。

●旧小川(水車小屋)跡
 明治時代の地図を見ると、京王八王子駅付近には子安神社の池を水源とする小川が駅の北側辺りを東流しており、この小川の周辺には多くの水車が描かれている。 現在は、この辺りも住宅で埋め尽くされ、小川はは見られないが、周囲の地形をみると低くなっていて、京王八王子駅の東の住宅の間に水路を覆ったとみられる路地を発見することができた。この水路跡は、通りを越えて市立第四小学校の南の道路沿いの歩道へと延びていることも確認できた。今は水路の上が覆われてしまい小川のせせらぎを見ることはできなくなっているが、小川の流れは今も残っている。
 なお、明治39年の地形図には、子安神社の池の北側に大きな水面の池が見られる。この池の北側から小川が流れ出し、この小川沿いにも多くの水車が見られる。この小川は、子安神社から流れ出した小川と合流し、南流して山田川に合流する。現在の山田川はこの小川の合流付近で東流して浅川に注いでいるが、当時は更に南流して煉瓦工場付近で湯殿川に合流していたことが地形図からよみ読みとれる。
 小川の痕跡が確認できたところで、交差点を南へ向かい、旧八王子停車場の敷地を巡る道路を目指した。

●八王子停車場跡
 現在の中央線は、明治22年に甲武鉄道という私鉄として新宿、八王子間が開通した。その時の八王子停車場が明治28年の迅速図の修正版に描かれている。その後、明治34年に高尾から与瀬へと線路が延長され駅も移転された。
 明治39年には鉄道国有法の施行により、甲武鉄道も国有鉄道となり名称も中央線となった。
 京王八王子駅の南側には、当時の八王子停車場跡周囲の道路形状が今もこの地区の骨格として残っており後からできた現在の八王子から中央線に向かい斜めに伸びた放射線道路との交差点は、7差路の複雑な交差点になっている。。
 明治39年の地形図には、駅だった西側に学校ができ、移転した駅と旧停車場との間に長沼の煉瓦工場と同じ窯の記号が見られる。専用線の両端に当たることから、これも八王子煉瓦製造株式会社の施設だったのであろうか。専用線が横浜線から分岐した大正10年の地形図には見られなくなっている。
 八王子停車場跡の北側の道路を放射線通りの交差点まで戻り、最後に子安神社の池を確認し、再び7差路交差点に戻り、近くの居酒屋で懇親会となった。

 

野猿街道の旧道


滝不動尊の前で


滝不動尊の裏の小川

新旧野猿街道の間の地蔵尊


煉瓦工場引込線の橋脚跡


煉瓦造りの祠


雨の中を歩く参加者


北野天満社


北野敷石住居跡


煉瓦造りの校門


住宅地の土に交じる煉瓦の破片


京王八王子近くの小川跡


旧八王子停車場脇の道


子安神社の池


散策コースの資料

 

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