案下路<陣馬街道>を歩く(2014 11 30)

 平成26年11月30日(日)13:00にJR中央線「高尾駅」に12名が集合。駅北側のバス停から宝生寺行きのバスに乗り、今回の案内人地元在住のHさんが待つ川原宿大橋に向かう。バスは、高尾街道から八王子城址の北側の霊園のある丘陵の谷間を進み、小田野トンネルを抜けたところが旧恩方村の河原宿である。北浅川に架かる橋が最初の目的地である河原宿大橋で、Hさんが待っていてくれた。

(河原宿)
 この日は、朝は晴れていたが午後になると雲が広がったが、雨の心配はなさそうだった。早速Hさんの案内で陣馬街道沿いの河原宿の集落に向かう。河原宿という地名は、甲州街道沿いの高尾駅の西北側にもあり、小仏の関所跡がある駒木野や関場という地名もあることから甲州街道との関係が示唆される。集落の中心部に着くと、黒塀に囲まれた1件の家が目に付く。写真家前田真三さんの生家で父親は恩方村の村長も務めた名家である。家の前の通りは、八王子から上野原に通じる街道ではあるが、普段は車も少なく静かな集落の佇まいである。
 ここから、来た道を少し戻り、八王子城址へ続く旧道を高尾方面に向かう。再び北浅川に架かるを渡り、目の前の丘陵の裾野、道の右手に石の門が現れた。向かって右手の門柱には、深澤山、左手の門柱には心源院の文字が刻まれている。この辺りは八王子城の搦手口に位置し、心源院は八王子城の城主となる北条氏照が養子となった大石氏とも関係があったことから、八王子城の祈願寺となった。また、武田信玄の娘松姫が、武田氏滅亡後八王子に逃れた際、剃髪して尼僧(信松尼)となったのがこの心源院だったという。案内人のHさんは、心源院の「心源」は、武田信玄の「信玄」と関係があるのではないかという。

(小田野城跡)
 八王子城の搦め手口の守りの要として支城として築かれた小田野城は、豊臣軍の八王子城攻めの際、北国勢の上杉景勝に攻められ落城したという。城主は小田野源太左衛門といわれ、恩方の入口に当たるこの一帯は、小田野という地名にもなっている。
 現在、八王子城址の一部として国の史跡に指定されている。心源院の前の八王子城址へ続く旧道を進むと左手に手作りの車止めのがあり、その先に丘陵の上に向かう道が続いていた。その道を登り始めると、左右に紅葉した広葉樹の木々が葉を落としつつ明るい空間を作り出していた。落ち葉を敷き詰めた山道を登ると、眼下に先ほどバスを降りた道が見える。城跡は小田野トンネルの真上にあったのだ。案内人のH氏によれば、もともとこの道を造る時、トンネルではなく切通しにする計画だったという。ところが、城跡を発掘調査した際、落城の際の戦いの痕跡を残す鉄砲の弾や古銭などの埋蔵品が大量に出たため、保存運動が起こり、トンネルになったという。
 落葉樹の下の曲がりくねった道を進むと、左手に深い谷が現れる。この時代の山城の特徴的な防御施設である空堀の遺構である。空堀の先の丘陵の頂上には平坦な広い空間が広がる。ここが城の中心部分であるが、現在は何もない広場となっている。
 なにも無い静かな広い空間とそこから見下ろす深い空堀の跡が、かつて激しい戦いが繰り広げた場所であったことを思い起こさせる場所となっている。
 一休みして、空堀に沿った道を下り、堀の対岸の台地上に出た。そこにまだ新しい小田野城の説明版が建てられていた。挟んで改めて城跡の方向を見たが、城跡は広葉樹に囲まれ外からはそれと気づくものは何も見えない。目の前の深い谷が空堀であることさえ、説明版が無ければ気付く人も稀であろう。背後に開発された住宅に住む人々は、この地に繰り広げられた激しい戦いのことを知っているのだろうか。
 この堀の端に造られた公園の中を北に向かい下ると斜面沿いの細い道があった。この道を下ると左手には堀越しに郭の一部と思われる頂上より低い段が見える。丘陵を下まで下ったところで堀の断面が見える。この道が左右に分かれるところに道標があり、「右鎌倉古道」、「左裏甲州路」という文字が刻まれていた。降りてきた道は鎌倉古道だったようである。この分かれ道東に向かうと道の傍らに石碑石塔が目につく。これらの石が無言のうちにこの道が古くからの道であることを物語っている。
丘陵沿いの道が丘陵と直角に、向きを変えたところに再び黒塀の家が現れた。門のところには、八王子市指定の天然記念物「小田野のキンモクセイ」の説明版と白の文字で「木食上人逗留の家」と「霊随南護上人錫杖の家」と書かれた木の板が掲げられてたが、塀に囲まれた内部は見ることができなかった。

(案下道)
 黒塀の家を後に、再び陣馬街道(案下道)へ出て、切通しと呼ばれる恩方地区と元八王子地区の境に向かう。この辺り(小田野)の古い地形図を見ると、道のすぐそばまで北浅川が蛇行しているが、現在は真っ直ぐに回収されている。しばらく車の通る道を歩き、再び丘陵の裾野の旧道に向かう。旧道へ続く道の角にお地蔵さんが祀られていた。
 案下道(あんげみち)は、武蔵から甲斐へ向かう旧甲州道のひとつで、八王子市追分で甲州街道から分かれ、元八王子、恩方をとおり、山梨県の上野原へ続く古道である。北条氏の前にこの地域を治めていた大石氏は、滝山城に移る前、恩方の浄福寺城に居城を構えていた。北条氏は滝山城から八王子城に居城を移した後も恩方と元八王子の境に当たる小田野に出城を構えるなど、この付近は甲斐と武蔵の軍事的重要地域で、南北浅川に囲まれる元八王子地区は、八王子の中でも広い平地が広がり、古代には由井の牧があったとされるところである。
 陣馬街道沿いに宅地化が進んでしまったが丘陵の裾の道沿いには、まだ自然が残り、お地蔵さんも祀られている。道の前方に黄色く色付いた大きな銀杏の木が目につく。次の目的地である切通しの丘陵上にある菅原神社である。神社の入口の鳥居の脇には、道祖神が並び、その奥の低くなっている場所は、池の様だが今は水がなく、雑草や落ち葉に埋もれていた。
【当日の説明資料より】
 八王子市追分町で甲州街道と分岐する陣馬街道は、水無瀬橋で南浅川を渡り、四谷、諏訪宿、弐分方を経て、恩方へと続く、恩方から陣馬山脇の和田峠を越えて神奈川県相模原市緑区(旧藤野町)につづく街道である。江戸時代は、この街道を「案下道」と呼び、甲州裏従来、或いは甲州脇縦環(その他佐野川往還、和田往還、恩方街道の呼び名あり)とも呼ばれた。
 地形的には、関東山地を和田峠の分水界から、北浅川の作る谷沿いに東に向かって下り、現在の圏央道が北浅川を横断するあたりを扇頂部とする浅川の扇状地を、八王子市街地に向けて、南東方向に緩やかに下って行くルートを取っている。
 陣馬街道は甲州街道のバイパスとしての役目を果たすとともに、甲州や恩方の産物(絹、薪炭、柏)を江戸へ運ぶ重要な物流路でもあった。当時は荷駄を引く馬が一日に100 頭近くも行き来した賑わいを見せたと言われている。
 陣馬街道と言う名は、昭和30 年に恩方村他5村(横山村、元八王子村、川口村、加住村、由井村)が八王子市に合併され、陣場山から景信山周辺をハイキングコースとして売り出す為に陣馬高原と呼称されるようになったことから、昭和38 年に街道名も「陣馬街道」が正式な都道名称となった。
 当時、陣馬高原の名称については、地元は“陣場”、八王子市は“陣馬”を主張し、当時のマスコミからは「場か馬か=バカバカ」戦争と揶揄されていた。

(切通し)
 この辺りから道は再び上り坂となり、傍らの赤い祠が目につく。坂道を登ったところで、道は堀のようになる。これが「切通し」で、北浅川が山地から平地に移る出口に当たり、この丘陵の先端が川に面していたため、荷車を通すため丘陵の先端の内側を堀のように削って道を通したことから、地元ではここを「切通し」と呼び、入口のバス停名にもなっている。切られた丘陵の先端部の頂上には、日枝神社が祀られている。神社入口の道祖神は、この道を行く人々の安全を祈願したもののように思える。
【当日の説明資料より】
 以前の陣馬街道は、神戸(ごうど)から北浅川を渡り、宝生寺(ほうしょうじ)、紙谷、元木、上宿、松竹と言うルートであったが、大八車や馬車による輸送量の増強に応じて1885 年(明治18 年)に小田野丘陵を開削した“切通し”ができた。
 当初は現在の陣馬街道の南側を通り、小田野の先で鎌倉古道と合流し川原宿に出ていた。現在のルートは1923 年(大正12 年)に開通し、路線バスが通る様になった。

(諏訪神社)
 切通しを後に元八王子地区に入り、車の多い陣馬街道を追分方向に向かう。神戸(ごうど)と呼ばれる辺りを過ぎたところで左に旧道が残っている。現在の陣馬街道は直線状に改修されているが、旧道は城下町の特徴でもある鈎状に曲がる箇所がもあり、地形に合わせてやや曲がりくねっていたようだ。旧道沿いには昔からの家の面影も残っており、一角に道祖神が固まって祀られている。道路改修に伴い道沿いの道祖神がまとめられたようだ。諏訪神社の手前(西)の旧道の北側に石の鳥居と塚のような高まりがあり、その上に御嶽神社の小さな祠が祀られていた。御嶽神社の先には諏訪神社の境内が見えており、境内西側の児童公園から境内に入った。
 境内にはいくつものが立ち並び、中央に本殿拝殿があり、本殿の正面に続く参道の西側広場にの中央に神楽殿がある。本殿の東側と北側はになっており、本殿横の銀杏の葉が本殿東側の池の水面を黄色く埋め尽くしていた。本殿北側の池には木製の橋が架けられ、橋の傍には古木の生える小さな島があるが、東側の池の上流部に当たるためか池は浅く水もない。池の中には井戸も見られるから実際は池とは言えないかもしれないが、東側の池と一体になっており、周囲は石垣で囲まれている。本殿の西側はには池が廻らず、お稲荷さん天満宮が祀られている。
 本殿にお参りしたあと、参道を南に向かい、陣馬街道に戻った。陣馬街道からの入口には道祖神が祀られ、その前に井戸が残されていた。参道入り口前の陣馬街道沿いに酒饅頭の専門店がある。8月の祭りは「饅頭祭り」とも呼ばれ、地元の元八王子では「お諏訪様(祭りをこう呼ぶ)」には、どの家でも酒饅頭を作っていた。私たちもさっそく饅頭を買い求め、頬張りながら次の住吉神社へ向かった。
【当日の説明資料より】
 諏訪神社は、1126 年(大治元年)に信濃国一之宮諏訪大社を勧誘して建立された。例祭には龍頭の舞の奉納と厄除けまんじゅう祭りがおこなわれる。

(住吉神社・西蓮寺)
 諏訪神社を出て甲州街道から四谷の交差点へ向かう途中で、再び旧道らしき道を見つけコースを変えたが、道の周囲に旧道の面影は見当たらなかった。しかし、この道には鈎型の屈曲があり、城下町特有の道路構造が残ったのではないかと思われる。四谷の交差点を過ぎると左手分かれる道に大きな欅が目に入る。これが旧道で、昔の集落の面影も残っている。旧道が鈎型に曲がる角に住宅に囲まれながらも比較的広い境内の神社がある。これが住吉神社で、鳥居脇の道祖神が今来た道が旧道であったことを告げている。森に囲まれた広い境内は人っ子一人おらず、静まりかえっていた。拝殿の裏に回ると見事な彫刻の本殿がある。この森は鵜森と呼ばれ住吉神社は「鵜森神社」とも呼ばれていたようだ。
 住吉神社を出て、旧道を鈎型に曲がり南に向かうと道は左に曲がる。道の右手は西蓮寺の墓地で、この道を突き当たったところの右側に仁王門がある。西蓮寺には、都の重要文化財に指定されている薬師堂があり、本尊の薬師如来は秘仏とされ、開帳は60年に一度となっており、普段は見ることができない。最近の開帳は昨年11月11日であった。境内は最近近代的に整備され、境内にあった池も埋め立てられ駐車場になっており、池の島に祀られていた弁天は仁王門近くに移転されている。
この辺りは、元八王子の扇状地の扇端に当たり、湧水が多く見られるところで、寺にあった池も湧水の池であった。
 西蓮寺を後に、第9回で歩いた水無橋に向かって歩き始めたが、11月末の陽は落ちるのが早く午後4:00というのに夕暮れが迫っていたので、北浅川の支流で八王子城址付近を源とする城山川に架かる三村橋でこの川が天井川であることを確認し、今回の散策を終えることにした。懇親会は西八王子駅付近ということにしていたので、三村橋バス停からバスで駅に向かった。
 17:00少し前だったが、駅前の居酒屋チェーン店は開いていた。今回懇親会から初参加のSさんが遅れて参加し、19:00過ぎに解散した。
【当日の説明資料より】
 泉町は湧水が豊富な場所と言う町名の由来である。扇状地の地下水がこのあたりで湧水となって流れていた。当時の陣馬街道は、泉町にある西蓮寺の境内を東側に迂回するルートを採っていた。
 当時のルートは、現在は市道となっている。このあたりは、以前は叶谷(かのうや)っ原と呼ばれて一面の桑畑と麦畑であった。陣馬街道は、叶谷っ原の手前の三村橋で城山川を渡る。城山川は扇状地を流れる河川として天井川の形態を呈する。

 


河原宿の前田家


心源院


小田野トンネルの上


小田野城の空堀跡

小田野城本丸跡


小田野城本丸跡の参加者


鎌倉古道と裏甲州路の道標


鎌倉古道と裏甲州路の辻


菅原神社池の前の参加者


切通し


切通しのバス停前で


諏訪神社拝殿


諏訪神社の境内


諏訪神社境内で

住吉神社正面の鳥居


西蓮寺の山門


散策コースの地図

 

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