滝山城址を歩く(2014 05 11)

 平成26年5月11日(日)13:30に宇津木台バス停集合ということにしていたが、案内人のIさんを除く参加者は、京王八王子駅から乗車したTさんを含めJR八王子駅12:52発の宇津木台行きバスに乗車。宇津木台で待つIさんと合流し、13名の参加者が1年前に歩いた山田団地を抜け、国道16号から加住丘陵の尾根道を通り滝山城址へ向かう。
(加住丘陵の尾根道)
 滝山城址への入口付近は、伊能図に描かれた峠越え道で薬研堀になっていて古い街道の面影が残っている。この薬研堀の壁を階段状に整備された道を尾根まで登ると、クヌギやコナラに囲まれた平坦な道が続く。尾根道は新緑の木漏れ日が心地よかった。
(少林寺)
 尾根道を30分ほど歩くと南へ下る道が現れる。歩いてきた尾根の南斜面には金龍山少林寺がある。一旦尾根道を外れ少林寺に向かう。10分ほどで少林寺の入口に着く。入口に建つ石碑には、禅宗の寺らしく慧開和尚の「無門関」序結びの句「大道無門千差有路、透得此関乾坤独歩」が刻まれている。
 少林寺は、元亀二年(1571)の創建で滝山城主北条氏照が開基。慶安元年に徳川家光から朱印25石を賜り、末寺十数ヶ寺を有すしていた。今も檀家の七割は北条家臣団の末裔という。ここは滝山城東南山麓の景勝地であり、氏照の住居だったと言われている。天保年間に建立された七堂伽藍のは、明治19年の火災で焼失、現在の本堂は平成5年に再建されたという。本堂正面に掲げられた金文字の「少林寺」の額が建物が新しいことを表わしている。住職はこの時の教訓からか、どのような人でも寺に恵みを求めてきたら少しでも施しをするようにし、人からの恨みをかわないことが大事だという。
 寺の麓には、現在の八王子の中心街の元になった横山・八日、八幡の三宿があった。
(古峯ヶ原)
 少林寺を出てきた道を尾根まで戻り、再び尾根道を西に向かう。この辺りが古峯ヶ原(こぶがはら)と呼ばれる地域で、桜の新緑に朱色の山ツツジが映えて美しい。山ツツジの尾根道が切れた南側には遠くに丹沢の山を望み、近くの丘陵の中には創価大学の白い建物が目につく。更に尾根道を進むと桜が群生する緩やかな谷あり、その道沿いに根元から沢山の幹が分岐している桜が目につく。幹の一本に「九本桜」と書かれた札が付けられていた。数えると確かに幹が9本あった。
(家臣の屋敷跡)
 桜の谷を越えると「都立滝山公園」の案内柱があり、いよいよ滝山城址に入る。入口には引橋があり、橋の下は空堀になっており、土塁も見られる。道の北側にはカゾノ屋敷、刑部屋敷、信濃屋敷など重臣たちの屋敷跡があり、南側の下には大池跡がある。
(二の丸址)
 家臣の屋敷から城郭へ入るところ、道の北側には東馬出(うまだし)、南側には大馬出と呼ばれる兵が出て守るための広場があり、両馬出を繋ぐ陸橋は行き止まり廓(くるわ)となっていて、古峯ヶ原方面から侵入した敵はここで挟み内になり、逃げられなくなる構造になっている。
 東馬出から北側の中の丸に向かう途中に武田勝頼の軍勢がここまで押し寄せたという二の丸がある。
(中の丸址)
 現在は中の丸跡と言っているが、滝山城古図等ではここを千畳敷としており、現在千畳敷と呼ばれている所よりも広い平坦面となっている。
 中の丸は、広く平坦な敷地が広がり、北の端の展望所からは多摩川方面が一望できる。
 多摩川に面する斜面はかなりの急斜面だが、下を見下ろすと数段の腰郭が見られ、防備のための細やかな設備が随所に見られる。
 この敷地の北寄りにある建物は旧国民宿舎「滝山荘」で、今は使用されていないが今回参加のMさんは小学生の頃、ここにに宿泊した記憶があるという。
 中の丸の西側の本丸との間は深い空堀で区切られており、空堀には引橋が架けられている。
(本丸址)
 引橋を渡ったところが枡型虎口になっており、右と左に直角に曲がった先が本丸の入口に当たる。本丸の入口には、「史跡滝山城址」と掘られた石柱の碑と滝山城の由来を記した「瀧山城本丸跡の碑」が並んでいる。
 「瀧山城本丸跡の碑」碑文
 「此の城は関東の名城といわれ、天文五年(一五三六)北条氏康、同二十一年(一五五二)上杉謙信、永禄十二年(一五六九)武田信玄の諸豪からの猛攻を受けている。
 大永元年(一五二一)始めて、大石定重之を築き、定久之を受け、ついで北条氏照の居城となった。尚、この城の城下町は八王子市の発祥地である。」
 本丸跡の西南隅には、古井戸があり、周囲には土塁が巡っている。南隅には滝山城址を世に知らせた地元の郷土史家沢井益三の句碑「多摩川の吹き上げて夏木立」がある。北側の高台にある霞神社の石段下には、霞神社建設記念碑がある。横の石段を上がると、新しい社殿があり、社殿の左手には新しい霞神社由緒改築記念碑が建立されている。霞神社社殿の裏手は城郭の最上段に当たり、北側には金刀比羅神社がある。金刀比羅神社は、滝山城址の古地図や明治初期の地形図にも記載されており、元の参道は東の急斜面の石段を登る道である。この平坦地の北隅からは、奥多摩の山々を望むことができ、武蔵名所図会にもここからの景色が描かれている。
 この展望所のところで、今回参加メンバーで記念撮影をし、来た道を二の丸まで戻る。途中、改めて引橋、や空堀土塁などの遺構を確認する。
(千畳敷)
 二の丸から三の丸に向かう途中に周囲を木々囲まれた広い敷地がある。現在はここを千畳敷きと呼んでいる。
 千畳敷の東側、二の丸へ向かう箇所には守備兵による守りの拠点となる馬出があり、容易には二の丸に行けない構造になっている。
(三の丸跡から出口まで)
 千畳敷から下り、左手の台地の上が三の丸跡で、滝山城祉の説明版がある。、さらに少し下ると右手に小宮郭の空堀が現れる。堀の入口には馬頭観音の碑があり、角を左に曲がると三の丸の下の平坦地に朱塗りの小さな社があり、堀割の坂道を下れば城の出口(本来はこちらが入口)になる。
 バス通りは、滝山街道で旧甲州道である。バス停でバスの時間を確認し、予定より一本早いバスで八王子駅に向かう。
 八王子駅北口の居酒屋「飛騨の里」が懇親会場となり、途中からではあったが、散策には参加できなかったFさんも加わり、楽しい一時を過ごすことができた。


(参考)
●滝山城祉(国指定の史跡)
 戦国時代の丘を利用した山城としては、都内最大規模の城となり、当時の遺構がよく保存されている。
 大永元年(1521年)扇谷上杉氏の重臣大石定重が築城、その子大石定久の時(天文五年)、北条氏康が武田信虎の加勢を得てこの城を攻撃。その後上杉氏の衰運にから大石定久は北条氏康に降り氏照を養子に迎えこの城を引き継いだため、天文二十一年七月上杉謙信が宇佐美定行を派遣してこの城を攻めた。さらに、永禄十二年十月には、武田信玄が小田原攻めの途中
勝頼によりこの城を攻撃している。これらの戦いで、何とか落城は免れたものの氏照はより強固な城の必要性を感じ、元亀三年(1572)ころ八王子城へ移転することになった。このように、滝山城は大石定重、大石定久、北条氏照の三代50年ほどの間に3回の攻防を経験したことになる。
 


 



滝山城址に向かう尾根道


少林寺


古峯ヶ原


二の丸址


中の丸址


中の丸址から多摩川を望む

引橋


本丸址


本丸址に残る古井戸


金刀比羅神社


参加者記念撮影


 千畳敷址

 

 

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