長沼から南大沢−多摩丘陵の紅葉と大石氏館跡を訪ねて− (2013 11 24)

 平成25年11月24日(日)、12:30に京王線長沼駅にメンバー11人が集合。今回の案内人は、地元在住のTnさん
 今回は、TnさんやTrを通じて4名が初参加。11月居入り急に気温が低くなったが、この日は幸い天候にも恵まれ比較的暖かい。今年は寒暖の差が大きいこともあって、紅葉が一段と鮮やかである。
 この日のコースは、長沼駅から都立長沼公園の丘陵を北から尾根へ登り、尾根沿いの道を東に向かい、南陽台の団地を抜けて下柚木の永林寺を訪ね、南大沢の首都大学東京を抜けて京王相模線の南大沢駅までの丘陵の道である。
 12:30着の電車で参加予定者が揃い、駅の南側にある六社宮に向かう。

【六社宮】
六社宮は、明治の初期に、長沼村内の各地に鎮座していた八剣社、熊野社、日枝社、八坂社、東照宮、五龍社の六社を合祀し六社宮にしたもの。地元の人は親しみをこめて「六社さま」と呼ぶ。
 神社の下と上に石の鳥居があり、上の鳥居をくぐると左右に狛犬が出迎える。向かって左の口を閉じた吽形狛犬は左足で毬をおさえ、子犬を抱えた阿形狛犬の顎は金具で補強されている。言い伝えでは「子犬は最初じゃれていたが、力の加減が分からず、ついに親の尻尾を噛んじゃった。噛まれた母親はあまりの痛さにギャーと言って悲鳴を上げた。その時大きく口を開けすぎて顎が外れたので、金具で補強している」と言い伝えられている。境内は、周辺より一段高く奥にある本殿のほか、入口の右手には神楽殿がある。

【長沼公園】
 高低差100mという丘陵にはクヌギやコナラが繁茂し、春はカタクリ、初夏にはヤマツツジやエゴノキ、夏はヤマユリが咲き秋にはドングリが楽しめる丘陵の自然を生かした都立公園である。山稜は東側の平山城と西側の猿丸城(現在の野猿峠)を結ぶ戦略上の城道である。
 六社宮の東の谷沿いの道に沿って水路のような小川がある。初参加のFさんはこの小川が周囲の田んぼに比べ高いところを流れていることに気付いた。小さな天井川になっている。沢の水を周囲の田に流すために人工的に高くしたとも考えられるが、沢から流れ出す土砂が水路を埋め、次第に高くなったとも考えられる。この沢沿いの道を丘陵に向かって進むと、道端には道祖神や地蔵尊が祀られており、色付いた木々に秋の日差しが照り映えて、赤や黄色の鮮やかさが目にしみた。
 谷沿いの道を少し登ると、長沼公園の石に掘られた案内と幾筋もある公園内の散策コースの案内板があった。ここから尾根を登る道と谷を登る道に分かれるが、尾根道は途中に通行できない箇所があることを案内人のTnさんが事前に調査しておいてくれたので、谷沿いの「霧降の道」を登ることにした。石畳の道はよく整備されており木漏れ日が心地よい。この道を登る小さな子と母親にも出逢った。
 途中のやや開けたところに公園の地質や生息する小動物の説明板があり、説明板を見ながら一息ついて更に上を目指した。
尾根に近いところで、長泉寺尾根の道との分岐があり、やがて尾根道に出た。目的地は尾根道を東に向かうのだが、西側に休憩所があり、ここで地元のTkさんが合流し参加者は12名となった。一休みして、先ほど来た山頂の尾根を東に向かう。霧降の道との合流地点を過ぎ、北に延びる長泉寺尾根の山頂部に北側を展望できる広場があった。秋晴れで空気が澄んでいたこともあり、西に連なる関東山地の山の峰が一望でき、眼下には八王子から日野にかけての街並みが開けていた。
 展望の広場から尾根沿いの道を東へ向かう。北へ伸びる笹尾根の先に休憩所があり、そこだけ楓の赤が鮮やかだった。ここの休憩所の説明板には、この付近に生息する鳥や昆虫が紹介されていた。
 更に尾根を東に向かい、栃尾尾根の分岐を過ぎ、平山口の急な階段を下ったところが南陽台団地の最北部になり、平山城址公園駅方面に繋がる切通しの広い通りに出た。
 この広い通りを平山城址公園駅とは反対方向の南へ下る。団地の頂部残された雑木林も鮮やかな赤い色に染まっていた。

【下柚木御嶽神社】
 南陽台の住宅の中を抜け、たところに滝山城の武相十郡領主、大石遠江守(定久)が滝山城の鎮守(丹木町にある御嶽神社)の一体を天文二年(1533年)にここに崇祀したと伝えられる下柚木神社についた。下柚木神社は、下柚木地区のの鎮守となっており、境内は広く本殿は一段高いところにあった。その本殿の脇には期限2600年を記念して植えられた杉の木が育っており、八王子の子安神社から分祀された金毘羅神宮と日枝神社の祠が並んでいた。
 境内のご神木は以前、大きな松があったが台風で倒れたため、古木のスダジイに神木の注連縄がかけられた。このスダジイも昭和60年の大雪で先が折れ、今は朽ちて倒れた枯木から若木が伸びている。
 御嶽神社のスダシイは、樹齢およそ400年、根元から二幹に分かれ目通り3m余、樹高200m余の大木で、市指定の天然記念物に指定されている。
 神社南側境内入口に建つ赤鳥居を潜り、谷沿いの道にでると開発前の風景が残っていて、東側の谷には丈の高い皇帝ダリアが咲いていた。
 下柚木御嶽神社から南へ下る道は開発前の面影を残し、紅葉も美しく、古くからの農家には屋敷内に稲荷が祀られている。道沿いには農産物の無人直売所もあり、野菜が100円で販売されていた。

【薬師堂】
 斜面の道を下った丘陵の裾野の昔からの農家が並ぶ道沿いに、黒い屋根の古ぼけた民家風の建物がある。敷地の西南隅に建てられた石碑には「金峰山永林寺薬師堂」とある。新編武蔵風土記稿にはこの薬師堂について、「無年貢地、凡そ三十六坪、殿ケ谷戸にあり、三間四面、薬師は長さ一尺余り、脇に十二神の像あり、永林寺の持ちなり、庭脇に古碑あり、正長二の三字纔(わずか)に見ゆ」と紹介されている。敷地の周囲に置かれたは野仏の中にここに出てくる古碑はあるのだろうか。薬師如来と十二神將の組合せは奈良新薬師寺と同じだが、薬師如来が一尺(約30cm)とあるから、脇に置かれた12神も大きなものではないのだろう。堂は雨戸で閉じられていて中の薬師如来を拝観することはできなかった。

 薬師堂の南には、八王子へ続く広い道がある。この道は、八王子の滝山城と町田の小野路城を結ぶ古代の軍用道路、小野路道が通っていた。現在の野猿街道は、同じルートではあるが、拡幅工事で道路幅が広がり直線的になっている。開発の結果、大きく姿を変えたこの付近で、明治時代の地図から位置を確認できる数少ない地物である。この街道のルートに沿って東に向かうと、左手に「曹洞宗永林禅寺」と刻まれた大きな石の柱が目に入る。道沿いの民家にはカリンが黄色の大きな実を着けていた。
 北へ向かう道の東側は柚木中央小学校だが、校庭の西隅の外側には大きな忠魂碑が建っている。忠魂碑には明治から昭和の太平洋戦争までに戦死した地元の人達の名前が刻まれている。小学校の脇の道を永林寺に向かう。学校入口にある大きな桜の紅葉を見ながら突き当たりまで行くと、左手の道に永林寺の赤い総門が目に入る。

【曹洞宗永林寺】
 永林寺は、天文元年(1532年)に大石定久が滝山城に移る際、それまでの居城だったこの地を叔父に当たる大石長純に譲り、長純が永鱗寺として開山した寺という。寺域を天文7年に定め、天文15年(1546年)に七堂伽藍が完成した。新編武蔵風土記稿によれば、「境内3万3千3百65坪、金峰山道俊院心月閣と号す。禅宗曹洞派、久米村永源寺の末寺なり」とある。その後、天正19年徳川家康が当寺を巡拝した際、、公郷格式拾万石を授けられ大名寺院となった。現在の永林寺の名は、家康がこの巡拝の時「名におえる、永き林なり」と賞賛したことから「永林寺」に改名したという。
 朱塗りの総門をくぐると、参道の両脇には十六羅漢の石像が並ぶ。その先の山門には「永林禅寺」の寺名を刻んだ額が掲げられている。更に参道を進むと山門に比べると小ぶりな中雀門があり、両脇に塀が繋がっている。中雀門をくぐると、正面に本堂、右手奥に鐘楼、左手には豊川殿の建物が配置され、豊川殿の背後の高台には三重の塔が見える。
 本堂横には由木城跡入口の案内版があり、本堂の裏手には墓地が広がる。本堂横の墓地の入口には「大石公故墳」の低い石碑があり、その奥に大石定久の墓がある。
 本堂裏の墓地の奥の裏山に由木城跡の看板が見え、墓地を抜けて高台に登ると、平坦な広場があり、山を背にして中央に史跡由木城址の石碑、向かって左手に石造りの十三重の塔、右手には大石定久の像が並んでいる。

 永林寺の総門を出て正面の道を南に下り、野猿街道から別れて大栗川の谷を西に向かう柚木街道をから、大栗川の対岸の丘陵にある首都大学東京を目指す。大栗川に架かる富士見橋からは富士山が見える(写真では中央やや左寄りに薄くシルエットが写っている)。 大栗川の南の丘陵の東北部には、富士見台公園があり、その入口に地蔵尊などの野仏が祀られていた。

【富士見台公園】
 富士見台公園は、多摩ニュータウン計画の一環として平成6年に開園した公園で、丘陵の北斜面の地形の起伏を利用し造られている。典型的な都市公園で、草地の中に木立があり、面積が9haと都会の喧騒を忘れさせるには十分な広さを有する。ピクニックなども楽しめ、サクラの林がある史跡広場は、お花見の時期に多くの人で賑わう。丘陵の頂部には周囲の雑木林の上から遠望できるよう展望台が設置されている。この時期は展望台周辺の紅葉も美しく、公園展望台から西を望めば富士山が見える。(写真の下方中央左寄り)南西方向には首都大学東京の高い建物が並ぶび、北側には多摩丘陵の雑木林の紅葉の中に、先ほど訪れた永林寺も確認できる。
 富士見台公園を後に、首都大学東京に向かい構内の道を抜け、京王相模線の南大沢駅を目指して歩く。

【首都大学東京】
 首都大学東京は、2005(平成17)年4月に、都立の4つの大学「東京都立大学」「東京都立科学技術大学」「東京都立保健科学大学」「東京都立短期大学」を再編・統合して設置した新しい大学だが、南大沢キャンパスの理学部(9号館)と工学部(12号館)の間の直線道路は、富士山と大室山が一直線上に見通せる線上(古代測量術で「真来通る」という)に設計されているという。しかし、この道路は周囲を雑木林に囲まれており、富士山を確認することはできなかった。
 この通りを中程まで歩いた時、南側の11号館の前に広がる池と紅葉が目に入ったので、池に映る対岸の紅葉を望みながらデッキに腰を下ろし一休みした。
 首都大学東京の敷地には、シラカシやスダジイなど常緑樹林が繁茂する 開発前の自然も保存されていて、緑地内には3つのがあり、イモリやカエル、スッポン、コイ、カメ等が生息しているという。構内の南斜面の緑地南に抜けたところは、斜面の裾野を色どる紅葉が夕日に映えて鮮やかだった。

【南大沢】
 周囲は開発され、昔の面影は探しようもないが、大学が載る丘陵の南斜面の裾野の一角に、開発から取り残されたように南大沢八幡神社が鎮座している。八幡神社入口脇には地蔵堂、地蔵堂裏手は庚申塔や地神塔の野仏がまとめて祀られている。
八幡神社本殿に向かい、境内右手には樹齢600年以上とも言われる巨木のオオツクバネガシがあり、市指定の天然記念物になっている。この木は、明治13年の火災により枯死したかと思われていたが、しばらくして再生したため地元の人は「不死身のアカガシ」として大切にしているという。また、神社入口の西には末広稲荷大明神も隣接していて、この付近だけが開発前の面影を残している。

 南大沢八幡神社を出て、大学構内の丘陵裾野の道を抜けると、首都大学東京の正門に出た。首都大学東京から京王線南大沢に続く道は日曜日ということもあって、家族連れや学生で賑わっていた。
 京王線南大沢駅前は、学生の街でもあり、懇親会の会場候補には困らない。
 9kmあまりを歩いた後のビールは格別。到着地で陽の沈むの確かめ、懇親会場へ向かった。?



参考
 <由木城>
 平安時代後期から鎌倉時代・室町時代にかけて武蔵国を中心として下野、上野、相模国に勢力を伸ばしていた武士団である武蔵七党(横山党、猪俣党、野与党、村山党、西党、児玉党、丹党)の一つ、横山党に属した由木氏が築城し、その後鎌倉幕府別当の大江広元の次男時広を祖に持つ長井氏(永井氏)の城となり、戦国時代には木曽義仲の後裔といわれる 大石定久が入城し居城としたが、定久が大石氏の家督を継いで八王子の瀧山城に居城を移した後、永林寺の寺域となって今に至っている。
 瀧山城主から八王子城主となった北条氏康の二男氏照は、瀧山城で大石定久の養子となりはじめは大石氏照と名乗っていた。

 <古代測量術>
真来通る / 真来向う・・・・2点を結ぶ線の延長を航路とすることを「古事記」では「真来通る」と言う。
*  遠近2つの高さの違う地標(山orランドマーク)があり、上下で重なればその場所は2つの地標の延長線上にあり、船を誘導する良い方向を得る。
*  2つの地標の間にいる場合、真来向かっている
*  航海者たちは「山だて」と言い、真来通る・真来向うは古代地文航法の基本。

 

散策ルート
写真位置


六社宮の狛犬


長沼公園入口

丘陵の地質の説明板


展望広場から見た西の山並み


下柚木御嶽神社


御嶽神社のスダジイ


永林寺薬師堂


柚木街道沿の永林寺の石標


朱塗りの永林寺総門


永林寺裏手の由木城跡


富士見台公園入口の野仏


富士見台公園


富士山と大室山の真来通る線上に設計された構内の道路


松木日向緑地の紅葉


南大沢八幡神社


八幡神社のオオツクバネガシ


南大沢で日没を見届ける

 

 

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