小仏関から高尾山登山道を探して(2013 09 07)

 平成25年9月7日(土)、13:00にJR中央線高尾駅にメンバー6人が集合。今回の案内人は、地元在住で高尾山の登山道に詳しいKsさん。
 今回は、3回目の参加となるTさんを通じてImさんとKwさん2名が初参加。朝は小雨が降っていて、麓から山頂が見えない状況で山登りのコースでもあり心配していたが、幸い午後からは雨の心配は無くなり、山頂も見えてきたので一安心。
 雨のせいでやや蒸し暑さはあるものの、直射日光が無いので気温はあまり上がらないのも歩くには幸いしていた。
 高尾駅集合は、第3回以来2回目となる。第3回は高尾駅から甲州街道を東に向かったが、今回は西に向かい、江戸時代の甲州街道画残る裏高尾と呼ばれる駒木野へ向かい、甲斐から武蔵への入口に置かれた小仏関付近から伊能図に描かれている高尾山登山道を探すことにした。
 伊能測量隊が甲州街道を通り、八王子を測量したのは、第七次測量(九州一回目)の帰りで、文化8年(1811年)、旧暦5月4日と5日で、新暦では6月24日と25日に当たる。24日に駒木野に宿泊し、天測も行っている。高尾山には、5月5日に登ったと思われる。伊能忠敬は全国を測量する間に著名な神社・仏閣を訪れているが、高尾山もその一つで、幹線ルートを離れてわざわざ測量している。
 伊能図の測線は、現在の地形図ともよく一致し、旧道が残っている箇所は大きくずれることはない。しかし、伊能図に描かれている高尾山への登山道は、現在の地形図に重ならず大きくずれる。ずれる原因の一つは、測量の精度によるもので、測線の形状から現在の登山の尾根道と照合してみるとほぼ一致する。ただし、尾根道を現在の地図に合わせると、登山口から尾根に至る道が長過ぎ、登山口も現在の地図には見当たらない。現在、この付近から高尾山頂への登山ルートは、蛇滝コースがあるが、位置がずれ過ぎ、ルートの形状も異なる。なお、伊能隊がこの地を測量した時代に描かれた駒木野宿の絵には、小仏関の西の尾根から山頂へ向かう登山道が描かれており、これが伊能隊が登った道の可能性が高い。こうした資料を基に、今回は、伊能図に描かれたこの登山口から尾根への道の位置を探してみることにした。

【高尾駅から両界橋】
 高尾駅から西に向かうが、初参加のKwさんは、甲州街道に出ず、駅前の広場から西に向かう集落の中の細い道を歩き始めた。案内人のKsさんもその先で甲州街道にぶつかることを承知しているので、そのまま西に向かう。やがて左手にJR中央線の線路が見え、道は右手に曲がる。Ksさんは、道なりに現在の国道20号に出ようとしたが、Kwさんは、線路沿いのさらに細い道を進めば国道20号に抜けられるというので、それに従い線路沿いの道を進むことにした。そして、国道20号に出る直前まで来たところで、左手の中央線の下をくぐるレンガ造りの隧道を見つけた。よく見ると線路下を人が抜けるためだけでなく、道の下には水路が、あることがわかった。この水路は旧甲州街道に沿いに今も残っている水路に繋がっており、浅川の取水口がすぐ近くにあるという。第3回で歩いた多摩御陵の南に残る旧甲州街道を歩いた時、道の南側に流れる水路があったことを記憶しているが、案内人のKsさんは、その水路は高尾駅のすぐ西で向きを東に変え、町田街道の手前で南浅川に合流する初沢川から水を引いていると言っていた。しかし、今回の案内の準備のため、献を調べる中で、この水路は南浅川から取水していることを知り、集合前に初沢川とこの水路が立体交差していることを確認してきたという。
 レンガ造りの隧道をくぐり、南浅川の水路に沿って取水堰に向かう。高尾駅付近から下流は、砂礫に覆われている南浅川だが、この付近は岩盤が露出している。対岸の大きな岩は獅子岩と呼ばれ、岩に接した深みを獅子渕と呼んでいるとのこと。
 獅子渕の上流に設けられた取水堰の上端には板が嵌めこめるようになっており、板の枚数で水位を調節できるようになっている。
 取水堰から来た道をレンガ造りの隧道まで戻り、国道20号に出るところ、今来た道の入口にかわいい顔の石の地蔵尊があり、花が手向けられていた。上を見上げるとJR中央線の鉄橋が架かり、その下、国道20号に架かる橋の袂には「両界橋」の標識が立っていた。「両界橋」の名は、その名の示すとおり、旧上長房村と旧上椚田村の境に架かる橋という意味で、高尾駅側が上椚田村で、歩いてきた付近は河原宿又は河原の宿と呼ばれていた地区である。

【両界橋から駒木野宿】
 両界橋を渡り、国道20号を100mほど進むと三差路の交差点がある。現在の国道20号は、南に向かうが、旧甲州街道はここから西に向かい、小仏峠を越える峠の道であった。
 南浅川もこの交差点の南側で別れ、国道20号沿いの川を旧上椚田村にあった小地名の案内の名を冠した「案内川」と呼び、旧甲州街道沿いの川を小仏川と呼んでいたが、小仏川の方は現在の地形図では南浅川になっている。
 今回は、旧甲州街道を西に向かうが、交差点近くのバス停に「小名路」というの名称を見つけた。旧上長房村の小地名「小名字」がバス停名で残っている。
 交差点から200mほど進んだところの南側に駒木野病院があり、病院の手前には、道を挟んで風情のある建物が目に着いた。建物の入口には、「高尾駒木野庭園」の名が記されており、門を入ったところに庭園の説明板が設置されていた。
 高尾駅集合時にTさんからいただいた新聞のコピーは、この庭園を紹介する記事だった。風情のある建物は、大正時代から昭和初期に建てられたもので、駒木野病院の前身である小林病院の住居を兼ねた建物だという。この病院の医師で100歳で他界した小林清子さんが八王子市に寄贈し現在はNPOが管理している。入口付近では、庭園の庭木を手入れしている人がいた。建物の南側には890坪に及ぶ敷地の中に池泉回遊式や枯山水の日本庭園があるようだが、今回は時間の都合もあり、入口を確認しただけで先を急ぐことにした。
 旧甲州街道は西に向かって上り坂が続く。高尾駒木野庭園の先の南北に交差する道路があり、その道路に沿って川が見られるが、現在は暗渠で、道路の下を流れているようだ。交差する道路を北に入ると上流側の川が見える。江戸時代に描かれた新編武蔵国風土記稿や武蔵名所図会に描かれている駒木野関の図には、この川が関所の東側の境として描かれている。
 この通りの先、旧甲州街道の北川に竹垣に囲まれて「小仏関跡」の碑が立っている。手前の説明版の横には手形石、手付石と説明のある台状の四角い石が並んでいる。「手形石」は通行証である手形を置き、「手付石」に手をついて通行の許可を待ったという。
 竹垣の範囲は、比較的狭いが、関所跡の建物などが配置されていた範囲は西側の細い川に挟まれた範囲で、竹垣の外には小仏の関の様子を描いた江戸時代の絵図の説明版があった。
斜面にそって一番西側の道路際の一段高いところには、「駒木野宿跡」と書かれた大きな碑が建っており、旧街道の南側には今も宿の佇まいを感じさせる民家が残っていた。
 小仏関は天正年間に設置された当時は、小仏峠にあったが江戸時代に駒木野に移された。移された当時は、現在の関所跡より北側の一段高いところにあったが、甲州街道の整備に合わせ、現在の位置に再移築されたという。早速関所跡の北側に向かって移動してみたが、低い位置に中央線の線路があり北側の台地が分断されていた。それでもよく見ると、山裾に墓が並んでいるなど、一時期北側のやや広い平たん部に集落の中心があったであろうことが推察される。

【年中坂から高尾天満宮の道】
 小仏関を後に西に向かうと下り坂になる。この坂が新編武蔵国風土記稿に「街道の内ニシテ駒木野ニアリ」と記載された「年中坂」である。坂の途中南側に石碑や地蔵が並び、一番西の端の碑には「念珠坂」の文字が刻まれている。
 坂を下ったところから住宅の中を東に向かう。坂の上の旧甲州街道より一段低い道で、少し戻って小仏川を渡り、川の南高尾山の山裾を再び西へ歩く。山裾の道は歩道として整備されているようで、歩くには支障がない。この道を辿りながら伊能図や同時代の絵に描かれた高尾山の登山道を探すがこれぞという道がみつからないまま、川の対岸に地蔵を祀る小屋を見つけた。近くに橋もあることから伊能図の登山道もこの付近の可能性が近いと判断し、地蔵小屋と地形図で北に向かう道路を確認するため、小仏川を渡る。
 地蔵菩薩小屋に置かれている大きな地蔵尊は比較的新しいものであったが、小屋の外側には地蔵尊の古いものが並べてあり、同時代のものと想定される庚申塔には宝暦の年号が読みとれた。
 地蔵尊の前のバス停は「荒井」となっており、これも旧長房町の「新井」集落と対応する地名である。そのすぐ横を北に向かう道案内には、「八王子城跡」の文字が読みとれる。この道の延長線上に狭い道が残っているが、橋は架かっていない。
 このまま甲州街道を西に進めば、当初の予定通り蛇滝口の道に入るが、伊能図に描かれた道を探すためもう少し小仏川沿いの山裾道を歩くことにした。
 橋を渡ってすぐ、南の梅林の麓で「高尾天満宮」の碑を見つけたので、行ってみることにした。
 高尾天満宮は、梅林の斜面を少し登ったところにあり、正面が東を向いていた。

【高尾天満宮から山上まで】
 天満宮へ登った道は更に上へ伸びており、尾根上の道は登れそうに見えた。 伊能図に描かれた位置ともほぼ一致するので、当初の予定からコースは外れるものの、この尾根道を登ってみることにした。
 山裾は比較的なだらかだったが、やがて斜度が増したが、何とか登ることはできた。尾根線の木には所々で白いペンキで印がつけられており、この尾根が道として使用されていることを確信できた。急斜面をしばらく登ると、尾根がなだらかになり、左に曲がって林道に出た。尾根は更に上へと続いていたはずだが、林道で尾根が分断され急斜面が出現し、そこからうえに向かうことは困難になっていた。仕方なく一旦林道を通って途中まで下山し、再び蛇滝コースを登ることにした。
 林道を下り終わると蛇滝コースの登山口に出た。道の傍らに石仏などが見られ、林道とは道の趣が変わった。谷沿いの比較的緩やかな道を登ると、やがて坂が急になるところで石段の上に小屋が見えて来た。この小屋は修験者が滝に打たれて行う水行の支度をする場所であり、その奥に蛇滝があるのだが丁度行の最中で滝の傍には近づけなかった。また、滝の入口の小屋の反対側には、福王稲荷の御堂があり、水行を行った講の名札が登山道に沿って掲げられていた。その先の道は、急に斜度を増し、道幅も狭く木々に覆われた昼間でも薄暗く、谷を巡るように曲がりくねりながら上を目指して続いていた。しばらく登ると頂き付近の賑やかな人声が聞こえてきた。道の先は高尾登山電鉄のケーブルカーの高尾山駅に近く、ビアマウンテンや茶店もあり賑わいが伝わってくる。
 この時期山上のビアマウンテンは人気スポットで、休日は2時間待ちが当たり前という。今まで歩いてきた道では、ほとんど他の登山者に出逢わなかったが、山上の道は人で溢れているようだ。
 蛇滝からの登山道は傾斜が急だったが、どうにか山上に辿りつき、茶屋の傍らのベンチで休憩を兼ねて記念写真を撮った。

【金毘羅台周辺】
 一休みして休憩場所の前の水道から高尾山の天然水を補給し、金毘羅台を目指して緩い下り坂を行く。ケーブルカーに駅を過ぎ、リフトの山上駅を過ぎると、再び人の流れが希薄になった。左手の高まりを巻くように、広く歩きやすい道が続く。伊能図の山上の道が他のところと若干ずれるのは、この高まりの上の尾根道を辿ったからと思われる。その高まりの途切れたところに石碑が並びメインの登山道はここから下るが、尾根道はもう少し先まで続いている。
 尾根の先端付近はやや広くなっており、金毘羅神社が祀られている。ここからは、八王子の市街地相模原の高層ビルが一望でき、特に夜景の美しいスポットとして知られている。
 伊能図には、登山口から斜面を登り尾根に出たと思われる所に社寺と思われる建物の屋根が描かれている。現在、付近に祠や御堂のような建物は金毘羅神社しかないので、林道で断ちきられた尾根道の上の部分を確認しようと北側に廻りこんでみた。はっきりした道ではないが、北に延びる尾根筋を歩くことは可能だったので、尾根の先端まで行ってみたが、先ほど登った高尾天満宮に続く尾根道とは尾根がずれるため、来た道を少し戻って、道の北側の高まりから北に伸びる尾根を探すことにした。
 尾根上は人が通らなくなったため草は生えているが、人が歩くにはほとんど支障がない。北に伸びる尾根を見つけたので、先端まで行ってみることにした。やはり先端は急斜面になっていたが、地図で確認すると、先ほど林道まで登って来た尾根に繋がることが分かった。我々は、この道が伊能図の登山道と登り口が一致することから、伊能図に描かれた高尾山であると確信し、もう一度金毘羅台に戻て1号登山路を清滝口に向かって下ることにした。
 清滝口から京王線の高尾山口までの狭い道は、帰る人とこれから登る人とで混雑していた。高尾山口駅のすぐ近くで櫓が目についたが、どうやら温泉を掘削中とか。今回登った北側には中央高速と圏央道が交わる複雑な形状の八王子ジャンクションができ、南側にも国道20号と八王子市内へのアクセス道路を繋ぐ高尾山インターチェンジができている。三ッ星が着いた観光地は、これからどうなるのだろうか。
 
 紅一点のOさんは、夕方からオーケストラの練習に参加する予定があるということで、懇親会には参加できなかったが高尾山口でオリエンテーリングマップを買い占めていた。
 他の参加者は、懇親会のみ出席のTuさんと高尾駅南口の居酒屋で合流し、初参加のImさんやKwさんもハードな山歩きを振り返り、地図談義に酒もすすんだ。

 

散策ルート
写真位置

レンガ造りの隧道


水路の取水堰

小仏関所跡


駒木野宿の民家


念中坂の石碑群


南浅川(小仏川)


高尾天満宮の由来


高尾天満宮南の尾根道


林道から北(中央道)


「是より金毘羅道」の道標


蛇滝入口の福王稲荷


蛇滝道に祀られた金剛神


蛇滝コースの案内板


金毘羅神社前の道


金毘羅神社の祠


天満宮に続く山上の尾根

 

 

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