鎌倉街道を歩く(2013 03 02)

 平成25年3月2日(土)、京王高尾線山田駅にメンバー7人が集合。
 今回、初参加者はTさん1名。早春の風がやや強かったが、寒さは感じない。
 今回の案内人は、メンバー最年少の地元在住のSさん。最年少とはいえ、地元の強みもあってか歴史にも詳しい。準備された案内図も分かりやすい。
 集合時間が午後12時30分といつもより早目なのは、歩く距離が長いため。目的地は、市境を越えて町田市の相原駅までの道程。普段それほど長い距離を歩くことのないメンバーにとって不安もあったが、行程の後半は峠越えの徒歩道で、第3回の時のように途中で交通機関を利用することは望めない。一同覚悟を決め最初の目的地に向かって歩き始める。

【磯沼牧場】
 最初の目的地は、この会には珍しい牧場である。名前は「磯沼牧場」で駅から近いこともあり、観光牧場として知られている。
予め申し込んでおけば、乳搾りやヨーグルト作りなども体験できるので、休日は子ども連れや若いカップルなどが訪れる。この日も幾組かのこうしたグループに遇ったが、先が長いこともあり、牛舎や、ヨーグルト工房などを横目に見ながら、先を急ぐことにした。磯沼牧場は、山田駅のある台地とこの台地を刻む湯殿川の斜面から裾野に位置する。この斜面を下り、牧場の施設を通り抜け、片倉から館町へ続く湯殿川沿いのバス道路を横切り、湯殿川沿いの整備の行き届いたサイクリングロードを西へ向かって歩く。

【湯殿川】
 丘陵に挟まれた谷間であるが、両側の斜面が緩やかなこともあり、広い空間が感じられる。案内人のSさんが準備してくれた明治39年の2万分の1正式図「八王子」を見ると、川沿いの低地は水田となり、南側に広がる緩やかな斜面は桑畑が広がっている。前回(第5回)歩いた八王子から横浜に向かう「絹の道」を多くの生糸商人が行き来した時代と重なる風景である。
 川沿いの道は、春風が心地よく歩きやすいこともあり、参加者はいつの間にかこれから歩く長い道程を忘れかけていた。しかし、参加者の中にはこの心地よい風んが運んでくる花粉に悩まされている者も少なくなかった。

【白旗橋】
 「湯殿川」の川名の由来が気になる者もいたが、やがて湯殿川を渡る白幡橋に着いた。現在は、コンクリート製のありふれた橋ではあるが、この橋は鎌倉幕府を開いた源頼朝に所縁の伝説が残されている。Sさんの説明によれば、頼朝が東国の武士に結集を呼び掛けるため各地を巡り、この地の豪族長井氏を訪れる際、この橋の上で源氏の白旗を掲げたという。即ち、橋の名称は、これに因んで付けられたということである。確かにこの橋を通る道は、明治時代につくられた2万分の1正式図にも載っている古い道であることが分かる。

【上小比企の石塔】
 白幡橋を渡り、対岸の台地の上を目指し再び歩き始めてすぐ、進行方向左手の道路端に見慣れない石塔を見つけた。「地神塔」と呼ばれる一般に豊作を願う石塔で江戸時代から大正時代まで作られ、町田市に多くのこされているという。しかし、この碑の表面には「南無妙法蓮華経」の文字が刻まれており、地神塔としても珍しい。この碑は明治9年の年号が読める。
 更に進むと古い道が三差路で合流する辻に、四角柱のうち南を除く3面を利用した六地蔵が祀られていた。すぐ横には板条の石も建っており、北向きの表面には「頭尊」の文字が深く刻まれている。この石は上部が欠損しており、欠損部分にはおそらく「馬」の文字が彫られていたはずである。「馬頭尊」は、馬頭観音のこと。観音様といえば、通常は優しい顔の像が普通だが、馬頭観音は憤怒の形相で、頭に馬の頭が載っているのが特徴的で、野仏にも多い。文字の野仏もないわけではないが、観音像のレリーフの方が一般的であることから、珍しい馬頭観音の例といえるだろう。この馬頭尊の後ろ、南側には石の道標があり七國峠の方向も示されていることから、この道が七国峠を越える道として古くから存在していたことが分かる。
 道標の案内に従い南から東に向かう道を行くと、左手に石段が現れ、そこを登ると正面に峠山観音堂の建物があり、見晴らしのいい敷地には、この地域に多く見られた庚申塔が祀られていた。
 峠山観音堂の階段を下りて、左に曲がるとが広がる。ここには開発前の懐かしい風景が広がっていた。
 畑の中の道を南に向かうと、正面に広い通りが見え、それまとは時空間が一変し、新しい町並みが広がる。その通りの角に農産物直売所があるのも象徴的である。参加者は、その直売所で思い思いの品を物色ながらし、一休みして、いよいよ新しい町並みに向かう。

【栃谷戸公園〜日野自動車博物館】
 広い通りを渡ると新興住宅地「みなみ野」である。左手には住宅が立ち並んでいるが、右手にはほとんど住宅が建っていない。そんな住宅地西側の外周道路を南に向かう。右手には少しだけ残った雑木の奥に丹沢の山が見える。雑木は栃谷戸の谷にそって残っていた。この谷は栃谷戸公園として整備され、歩いている道沿いに紅梅の梅林が紅い花をいっぱいにつけていた。
 一時梅を観賞したあと、元の道に戻り先ヘ進むと、右手に大きな建物が目につく。日野自動車の博物館である。日野自動車は、トラックやバスの製造で知られており、懐かしいボンネットバスや、消防自動車のクラシックカーも展示されているが、この日は休館のため外から眺めるだけで、中に入ることはできなかった。隣には大船配水所の建物もある。大船配水所を過ぎたところの下を抜けるトンネルがあり、トンネルの西側には大船の集落が見える。
 そこから南の道路は1kmほど直線が続く。正面には、七国峠ある尾根が造成され、土の壁のようになっている。
 突き当たりの道路角にコンビニを発見し、峠に向かう前に一休みすることにした。昔の峠の茶屋がコンビニに変わったようなものである。

【七国峠】
 大船配水所を過ぎたところからは、「七国」(ななくに)となる。医者の団地のようなところもあるが、「となりのトトロ」の「七国山病院」(しちこくやまびょういん)とは無関係である。峠に向かう元の道は、宅急便の配送センターの中を抜けており、登り口が見当たらない。少し西に大船配水所の大きなタンクがあり、タンクの横から峠道に繋がっている。
 山道に入ると椚や楢の林となり、風景は一変する。一気に鎌倉時代へタイムスリップした感がある。暫く行くと元の道と出逢うが、元の道は笹が覆いかけており、やがて分からなくなるのではないかと懸念する。旧道に合流して更に進むと峠の道から山頂に向かう道が目に入る。予定ではそのまま峠に行くことになっていたが、三角点を確認しようと山頂の道へコースを変更。山頂はすぐ上と思ったのだが、尾根伝いの道は意外と長く感じた。山頂に辿りついたと思ったところで足元に三等三角点の標石を発見した。その先は、やや広い空間があり、中央に小さな祠が見えた。大日如来を祀った大日堂で、由来の説明もあった。大日堂の脇には、「名勝七国山関七州見晴台跡」の石碑が建っており、ゲゲゲの鬼太郎の目玉親父のような木の道標が鎌倉古道の方向を指していた。道は大日堂の前で三差路になっており、道標の指す鎌倉古道と反対側に階段があったが、この日は工事中だったので、工事の人に教えてもらった鎌倉古道の道を行くことにした。この道は、よく整備されていたが、一気に山を下り、峠を通らず相原の町へ続く道の近くまで降りてしまったことに気付いた。大日堂のすぐ下、階段を下ったあたりが七国峠なので、予定のコースは峠を下らずそこから東へ向かう尾根道を行くはずだった。仕方なく、再び七国峠を通る道を登ることにした。
峠道は傾斜を緩やかにするよう、掘りのようになっており、峠の三差路の一段高いところに大きな石塔が建っていた。石塔には「湯殿山供養塔」の文字が中央に掘られ、左右に月山と羽黒山の文字が並んでいて、側面には天保十年冬十一月の日付が掘られていた。天保の飢饉は、江戸時代の飢饉のなかでも期間が長く、多くの死者が出たことで知られる。天保10年は、この飢饉がひと段落した時期で、湯殿山神社の御神体である巨岩から噴き出す霊湯が、五穀豊饒に霊験があるとされてていたことから、飢饉がおこらないようこの供養塔が建てられたものと思われる 。供養塔から下を見ると、マウンテンバイクでこの道をやってきた少年たちと参加者数人が峠の中央で何やら話をしているのが目に入った。少年たちは私たちが通ってきた新興住宅地七国からやってきたという。自転車とはいえ行動範囲が広いことに驚かされた。因みに、この峠のすぐ近くに大日堂に続く階段の登り口があった。一同、地図を確認すべきだったと反省。
 峠の真ん中で暫く時間を費やし、予定のコース、東へ続く尾根道を進むことにした。尾根道の南側斜面は整備が行き届き、明るい日差しが地面にまで届いていた。やがて黒いネットがかかった斜面に出た。ネットの下には、ブルーベリーが斜面一面に植えられていたが、時期的に実は着いていなかった。そのまま尾根道を進み、坂を下ると住宅街の道に出た。そこで地図を見て、またコースから外れたことに気が付いたが、そろそろ疲れもでている参加者は、引き返す気力はなく、予定のコースへ軌道修正するのが精一杯であった。住宅が立ち並ぶ南斜面の裾の道を相原駅へ向かう。

【相原を歩く】
 暫く歩くと正面に神社の建物が見えた。諏訪神社である。境内に入ると神社の建物や石垣の工事が行われていたが、社殿の前では厄年を確認する参加者もいた。
拝殿前の南側の石段を降りたところには、溶岩の上に載った狛犬があり、その更に南には石の鳥居が建っていた。
 この諏訪神社の縁起を見ると、信州下諏訪の諏訪神社に起源があるようだで、8月20日の大祭に行われる丸山の獅子舞は、町田市の無形民俗文化財に指定されている。
 神社の前の道を南に向かうと、集会所の前に庚申塔があった。
庚申塔は、小比企の峠山観音堂の敷地にあったものと同じ形式だが、此方の方が表面の風化が進んでいるためか、古いもののように見えた。昔の街道沿いに同じ文化があったことがうかがわれる。
 庚申塔を最後に、相原駅に向かい、駅近くで懇親会を行う予定だったが、時間が早いせいもあって、駅周辺に開いている居酒屋はなかった。こ一駅先の橋本駅周辺なら開いている居酒屋もあるはずと、時間調整を兼ねて歩くことにした。橋本駅前の高いビルが目標となった。新しくなった相原駅の構内を通り抜け、駅前の道を南に向かうと。水面がかなり低い位置にある川を渡った。境川である。境川はその名が示すとおり、武蔵国と相模国の境の川である。相原は、旧境村で、境川に沿った南北が狭く東西に細長い村であった。市町村合併の際、長辺に隣接する八王子市にも相模原市にも属さず短編に接していた町田市に合併したことから、横浜線は、八王子市から一旦町田市に入り、相模原市を通過して再び町田市に入るため、東京、神奈川、東京、神奈川と都県を出入りしている。

【ゴールは橋本駅】
 境川を渡り、目標の高いビルを目指し駅が近づいたところで、橋本の鎮守「橋本神明台神宮」の前に出たが、社殿までの参道が長く、夕闇も近づいていたので喉を潤す方欲求が勝ち、駅前へと急いだ。幸い、入れる店も見つかり、漸く花粉症に悩まされた人も一息つくことができた。こうして今回の総距離は、これまでの最長となった。

 

散策ルート
写真位置

磯沼牧場の放牧地


湯殿川沿いの道


頼朝所縁の白旗橋


六地蔵
 

峠山観音堂


日野自動車博物館


大船配水所の給水塔


七国峠へ向かう道


 山頂の大日堂


七国峠の湯殿山供養塔


相原の諏訪神社


諏訪神社の南の庚申塔


武蔵と相模の隔てる境川

 

 

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