絹の道を歩く(2012 10 27)

 平成24年10月27日(土)、京王相模線南大沢駅にメンバー8人が集合。
 今回、初参加者は2名。一通りの自己紹介をして、急ぎバス停に向かう。
 集合時間が午後1時45分と中途半端なのは、目的地付近までのバスに合わせたため。1時間に2本ほどしかないバスに乗り込むが乗客は私たち以外は数人で、ほとんど貸切状態であった。
 新興住宅地の中を北に向かい、大栗川沿いの広い道を西に向かう。途中旧道に入り、元の広い道に戻るとすぐ目的地である鑓水中央のバス停。南大沢駅から15分ほどで着いた。
 ここから北に往時の絹の道が残されているが、一旦南に向かい、「小泉屋敷」を訪問することにした。

【小泉屋敷】
 明治11年に建てられたこの屋敷は、茅葺の入母屋造りでこの地方の典型的な民家建築であり、昭和47年に東京都指定有形民俗文化財に指定されている。屋敷の敷地は33.2アールあり、南面する道路沿いの宅地には、母屋のほか、納屋、たい肥小屋、稲荷社、えな塚などが点在し隣接して田畑がある。屋敷の裏手は山林が丘陵の尾根に達している。
 個人のお宅なので、無暗に立ち入ることはできないが、庭で作業をしていた主の奥さんは、私たちを庭に案内し屋敷外からではあるが、内部の様子が見られるよう便宜をはかってくれた。縁側には、敷地で採れた柿や野菜が並べられ即売所となった。
 秋の日はつるべ落としといわれる。ここから北に向かい夕方までに片倉駅まで歩くことにしている。途中からバスはないので、なるべく余裕をもって歩きたい。小泉屋敷を後に、一旦バス停付近まで戻り北に向かう。大栗川の谷を越え丘陵の尾根を目指す道が絹の道である。御殿橋のたもと、絹の道の入り口には「八王子道」の石の道標がある。

【絹の道資料館】
 民家沿いの道を北に向かい5分ほど歩くと右手に絹の道資料館がある。入口の木造の門には「八王子市絹の道資料館」と墨書された木の看板が出迎えてくれる。資料館の敷地は、かつての鑓水の生糸商、八木要右衛門家屋敷跡で、資料館の建物も生糸商人屋敷の景観をイメージした造りとなっている。建物内部は絹の道と生糸商人の関係や製糸・養蚕に関する資料が展示されているほか、絹の道を歩く人の休憩所もある。入場は無料。建物の外の庭には、八木要右衛門家屋敷の遺構も残されており、山裾の湧水を引いた水路跡や絹の取引相手であった異人館の建物跡の礎石がある。
 絹の道資料館から100mほどのところで道が二手に分かれる。分岐部には、庚申塚があり、右手の丘陵に入る道が絹の道である。 ここまでは、道沿いの民家の石垣や谷間の田んぼなどが懐かしい人里の風景を見せていたが、これから先は、急に山道となり、道の傾斜も急になる。人家はほとんど無く、木々に囲まれた山道の風景へと一変する。

【絹の道】
 それでも、生糸を積んだ荷車が行き交った道らしく、傾斜を緩和するため丘陵の急斜面を掘り下げ、石畳が敷かれている。
この道を15分ほど登るとやがて丘陵の尾根に出る。尾根道にはアトリエ風の建物もあったが人影は見当たらなかった。
 尾根道で一旦視界が開けたが再び森の中の道に入り、行く手に石段が見えた。
 石段に向かって左手には、絹の道の石碑がある。石段の前で道は左右に分かれるが、いずれの道も山頂の下を廻り、山の北側の住宅地へと続いている。

【道了堂跡】
 石段を登ると、左右に石灯篭や地蔵尊石碑などがあり、正面には苔むしたかつてのお堂の礎石だけが残る。
 「道了堂」の跡である。道了堂は、明治7年に鑓水の商人大塚吾郎吉が中心となって峠を通る旅人や村内の安全のために、村でも見晴らしの良い峠の上に、浅草花川戸から道了尊を勧請して創建したもので、鑓水にある永泉寺の 別院である。創建当時は地元の人々の信仰を集め、絹の道の中継点として繁栄したが、鉄道(横浜線)の開通とともに街道が衰退し、このお堂も次第に荒廃の一途を辿り、昭和58年に倒壊しかけた堂は撤去された。なお、道了堂の「道了」とは、曹洞宗の修験層、妙覚道了のことである。妙覚道了は、道了尊、道了大権現などとも呼ばれ、怪力の持ち主で、神奈川県南足柄市の最乗寺の建立に助力し、師の没後は寺門守護と衆生救済を誓って天狗となったと伝えられている。
 道了堂跡の北側の更に高い地点が標高213.5mの三角点のある大塚山山頂で、東にやや下ったところには墓地もある。
 現在は、周囲の木々が視界を遮り、見晴らしは良いとは言えないが、道了堂を含む一帯が大塚山公園である。
 山頂から道了堂跡に戻り、登ってきた石段を下り、絹の道に戻る。
 地図を眺め、石段に向かい左側の道を進むことにし、山頂の北側に出ると、一気に視界が開け、眼下には新興住宅地が広がり、その先には八王子駅南口に聳える高層ビルが目を引く。
 道了堂の何となく重苦しい空気に包まれていたが、その光景を目にして、急に現実世界に戻ったような安堵感を覚えたのは、私だけではなかったと思う。参加者の顔に明るさを感じたのは、心霊スポットからの脱出したからだろうか。

【団地の中を抜ける】
 残された古の絹の道は、ここまでで終わる。道の続きは急な階段である。
 絹の道が栄えていたころ作成された地図がある。明治15年に測量された二万分の一迅速測図と呼ばれる地図がその地図である。印刷刊行された地図は線のみの一色刷りだが、測量原図が国土地理院に残されており、その復刻版を入手した。
 今回歩いた道は、「南多摩郡鑓水村及橋本村」という図福に含まれている。
 この図だけでは、現在の位置が分かりにくいので、現在の2万5千分の1地形図「電子国土」に当時の幹道を重ねてみた。
 団地造成のため、丘陵が削られ、谷が埋められ当時の道の痕跡は跡かたもなくなっているが、よく見ると、昔の道と現在の道が重なっている箇所も少なくない。古い地形図と比較しながら、団地の中に残る絹の道の痕跡を探してみた。
 山を下り、片倉台団地の郵便局から北側の住宅地の道路が古の絹の道に重なることを発見し、この道を下ることにした。
 途中、ガードレールの内側で歩道と思しき所に植え込みがあり、どこを歩けばいいのか?と頭を悩ませながら、車道の隅を小さくなって歩く参加者。
 団地を抜けたところで、いかにも古そうな石の柱?を発見。後ろに慈限寺(じげんじ)という案内板が目につく。
 そこを右に曲がる道の奥に団地とは趣が異なる古い寺院が目に飛び込んで来た。
 帰りの駅も近く、夕暮れが迫っていたので通り過ぎようとも思ったが、好奇心が強い参加者多く、気が付けば皆山門に向かって歩いていた。

【慈限寺】
 入口の案内板から山門までは150mほどあったであろうか。山門前の駐車場には大きな石柱に曹洞宗慈限禅寺と掘られていた。その奥に朱塗りの山門が見え、境内へと続く。本堂は工事中であったが、敷地は広く庫裏の裏には十三重の石の塔が建っていた。朱塗りの山門はの上は鐘楼を兼ねているとのこと。
 昔の街道に繋がる痕跡がこんなところにも残っていた。
 慈限寺から横浜線片倉駅は近い。駅前の居酒屋で懇親を深めたのは言うまでもない。

 

散策ルート
写真位置

小泉屋敷


絹の道資料館


絹の道の分岐に建つ庚申塚


丘陵を登る絹の道
 

絹の道の石碑


道了堂跡の碑
 


大塚山から片倉方面を望む


この植え込みは歩道?

 慈眼寺の山門

 

 

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