多摩御陵周辺を歩く(2012 06 03)

 平成24年6月3日(日)、JR高尾駅北口にメンバー5人が集合。
 今回の案内人は、初参加ではあるが、地理教育の専門家大学の教授H氏である。
案内人が用意したのは、明治20年測図の2万分の1迅速測図昭和7年昭和10年昭和33年の2万5千分の1地形図、それに多摩御陵駅が載っている「大東京交通略圖」、「走る、歩く@たま」の八王子市内廃線跡のページのコピー。
今回5人の参加者のうち、初参加は3人で過半数を占める。初参加の残り2人も地図の専門家。さらにそのうちの一人Kさんは、この付近の在住者で地域の様子に詳しい。

 一通りの自己紹介をして、早速高尾駅を北に向かい、多摩御陵への近道を行く予定で現甲州街道を超え浅川沿いの南の道を東に向かうことにしたが、地図を読み誤り道が発見できずに現甲州街道に戻り東に向かう。町田街道との交差点手前で北に入る通りを見つけ、その道を進む。地元のK氏が旧甲州街道であることを教えてくれた。案内人の予定していた多摩御陵への道は、町が街道を元八王子方面へ向かうと浅川沿いにあることが判明したが、一行は旧甲州街道を進むことにした。道の両側は車の少ない閑静な住宅街である。しかも家の構えが他の地域と明らかに異なる。なんとなく武家屋敷の風格が漂う家が多い。また、旧街道の面影だろうか道と住居の間に流れの早い水路が残っている。屋敷の庭の南西隅に今はあまりみられなくなった稲荷を祀っている家が目につく。これらのは小さいが掃除がゆき届き、大切に守られている様子が伝わってくる。黒塀の手入れが行き届いた屋敷もあれば、昭和30年代頃までの町屋として多く見られた家屋もここには残っている。旧甲州街道を進むこと600mほどで現在の甲州街道に戻る。この東側の入口には、地元の方が建てたのだろう「旧甲州道中」と板に墨書された道標があった。そのすぐそばには、昭和39年の東京オリンピックの際、自転車競技のコースになったこの地区を記念して地元浅川中学校の生徒が製作したモニュメントが今も残されているが、このモニュメントを説明する看板は錆びてほとんど読めなくなっている。

 旧甲州街道の東の入口から現甲州街道を東100mほどのところに北に向かう広いケヤキ並木の通りがある。これが、大正天皇の多摩御陵、昭和天皇の武蔵野陵へ続く通りであるが、我々は、一旦、甲州街道を挟んで御陵とは反対の道を南に向かうことにした。この道は御陵へ向かう北側と同じ道幅の広い通りだが、すぐに行き止まりになる。行き止まりの正面には曾てここに存在した「綾南会館」の表札が埋め込まれた石の門が今も残る。建物は1990年(平成2年)10月9日に左翼によって爆破され、今は跡かたも無くなっているが、それまでは八王子市の公民館として利用されていた。元はJRの前身である国鉄の「東浅川駅」で、この駅は大正天皇の大喪列車用の臨時駅として開設され、皇室専用の駅であった。駅舎は社殿風の建物であったが、1960年(昭和35年)に廃止され、八王子市に払い下げられ、公民館として利用されていた。当時の地形図には、駅の東から線路が二股に分かれ、北側の線路がこの広い通りの南側で終わっているのが読み取れる。その痕跡がないかと今は秋のイチョウ祭りの事務局の建物が残る敷地を探索したが、ホームの跡など駅舎の痕跡は見つけられなかった。そこで、曾て線路が敷かれていたであろう位置を確認すべく、敷地の西側にある中央線を跨ぐ高い歩道橋の上から現在の中央線の線路との関係を確認することにした。今在の駐車場と線路の間に線路が敷けそうな空間が存在することから、東浅川駅への線路はこのあたりにあったものと思われる。

 折角なので、多摩御陵を参拝することにし、再び甲州街道に戻り、今度は北に向かうことにしたが、スタート時に漸く午前中の厚い雲が切れたと思っていたのに、この頃からまた雲行きが怪しくなってきた。多摩御陵へ続く道を進み浅川に架かる石作りの灯篭のある南浅川橋を渡ると、道は大きく西に曲がる。道路の左手は低くなっており、広いグランドが広がっている。東京オリンピックの自転車競技の会場となった綾南公園である。この反対側に昭和6年から昭和20年まで存在した京王電鉄御陵線の終着駅多摩御陵駅があったはずである。

 御陵線については、一旦置き、多摩御陵へと向かう。高いケヤキ並木が切れたところに、参拝客用の駐車場があり、御陵警備の派出所がある。その先が御陵の敷地となっており、参道の両側はケヤキから手入れの行き届いた杉の並木に代わる。太い杉の並木道を行くとやがて右手に向かう道が現れる。これまで歩いてきた道に比べると明るく開けた空間を感じるが、よく見ると両側の杉並木がまだ若いのに気が付く。この先に昭和天皇の武蔵野陵と香淳皇后の武蔵野東陵がある。このころから、雨脚が目につくようになったが、傘は差さなくとも何とかなる程度であった。武蔵野陵を後に、来た道を少し戻ると、道が二股に分かれ、右の道が大正天皇の多摩稜の近道になっている。敷地の最西端に多摩稜があり、その手前に貞明皇后の多摩東陵がある。これらの陵墓は、古墳の分類でいえば上円下方墳という形式で、立法体の盛土の上に半球上の盛土がなされ、葺石が施されている。古墳の天皇陵と同様に、陵墓の正面には鳥居が設置されている。

 大正、昭和の天皇陵を拝観し、来た道を御陵駅のあったであろう地点まで戻った。案内人のHさんが用意してくれた地形図では、御陵線は」その存在時期から、昭和10年の2万5千分の1地形図に記載されているはずであるが、この図には入っていない。昭和33年の図には鉄道敷きであったと思われる盛土の痕跡が記載されており、周囲に比べ低い地域でそのルートを確認することができる。一方、多摩御陵駅のあったであろう地域は比較的高い土地であり、現在は住宅が建ち並び付近を観察したが、痕跡らしきものは見つけられなかった。そんな時、地元参加のKさんがタブレット型の端末を持っており、インタ―ネット上の航空写真に写っている住宅の配置から、線路跡らしい痕跡を見つけ出した。それは、住宅の一角の敷地が一定の幅で細長く続いており、明らかに曾て一定幅の線上の敷地が存在したことを想像させるものであった。どうやらこれが鉄道の跡地であろうと見当を付け、これから線路敷きの痕跡を探して旧御陵線のルートを東に辿ることにした。すると、細長い敷地の住宅が切れた付近で南側に傾斜する斜面の境に人工な段差が認められた。おそらく、この段の上側が線路敷きと考えさらに空き地になっている草の中を探ると低いコンクリートの柱が見つかった。これが鉄道に関係するものかどうか分からないが、土地の形状から線路敷きらしき部分を地図上で特定することが出来た。さらに東に向かうと住宅団地にぶつかり、この地区で廃線跡を探すのは困難と諦め、昭和33年の地形図に見られる低い土地の盛土部分でその痕跡を探すことにした。低い土地とその上の台地との境は5mほどの段差があり、鉄道を敷くとなれば、かなり高い盛土のような構造物が必要なはずである。しかし、その付近と見当をつけた周囲にそれらしき構造物は見当たらず、当時から残っている細い道を東西に流れる浅川に向かって下ることにした。すると、浅川の堤防近くの民家の中に巨大なコンクリートの壁のような構造物が現れた。高さ5mほどのコンクリート製の構造物で、離れて見れば、橋脚であることが分かる。これにより、御陵線の確かな痕跡を見つけることができた。浅川の対岸にも痕跡がないかと堤防敷きから見通してみたが、それらしき構造物は見当たらなかった。ただ、一か所建物と樹木の途切れるところが見えたので対岸に渡って確認してみることにした。橋脚の様なものは見当たらなかったが、よく見ると地面にコンクリートを削った残骸が残っている箇所を見つけることができ、このあたりにも、かつて対岸でみたようなコンクリート製の構造物があったであろうことは想像できた。
 歩き始めて2時間あまりが過ぎ、参加者も喉を潤すに適度な疲労と空模様が怪しくなってきたので、急ぎ現在の甲州街道に戻り、高尾駅南口ゆきのバス停に向かい、予定の散策を終えることにした。

国土地理院の基盤地図情報5mメッシュ標高データの画像空中写真で確認したところ、地図では確認できなかった線路跡の痕跡(5mメッシュ標高空中写真)が残っていることが判明した。(1;25,000地形図に表示

その後、日本国際地図学会の清水靖夫先生に1:50,000地形図で御陵線の表示のある図が存在することを教えていただいた。

 


写真位置
現甲州街道を東に」向かう


旧甲州街道の水路


旧甲州街道の佇まい


旧甲州街道の街並み
 

旧東浅川駅跡
 

昭和天皇の武蔵野陵
 


御陵線の痕跡(橋脚)

 

 

 

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